「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 093
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八木哲郎 『天津の日本少年』
                   草思社、1997

 

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日本少年であった著者は天津で生まれ、15歳までここで過ごした。天津の回想は実に細かく描かれている。それは幸福感に満ちたものだ。

父は三井洋行(三井物産天津支店)の小麦課長をしていたが、これは花形の役職で、月給は千円と格段に高かった。小麦課長がなぜ花形かというと、天津、北京などの華北の大都市は小麦粉の大消費地で、天津港はアメリカ、カナダ、豪州、エジプト、日本などから大量の小麦を輸入していた。父は集積した小麦の製粉から販売までを一手に切り回す仕事をやっていた。

家族構成は父母と4人兄弟妹で、著者は2番目である。また家には使用人一家が住み込んでいた。住まいは日本租界にあった。

日本租界は1896年に日清戦争の戦勝権益の一つとしてできたものだ。イギリス租界、フランス租界、これらは第2次阿片戦争のあとにできた。それ以外にもロシア、イタリア、ベルギーなどの外国の租界ができあがっていた。その中でイギリス租界は他の租界を圧倒して繁栄していた。

私たち家族は、休日には全員おしゃれをして出かける。それはわくわくする楽しみだった。まずフランス租界では映画を見た。そのあと、イギリス租界に行って、ショッピング、飲食、ダンスを楽しんだものだ。

 

この本に書かれていることは、植民地での恵まれた生活の回想録なのかと思って読み進めていくと、それが昭和20年の終戦を契機として暗転する。父は地位を追われることになった。日本人に対する中国人の態度や目つきが大きく変わった。品物が乏しくなり、生活が厳しさを増してきた。一人で街に出かけると、見知らぬ中国人に跡をつけ回されるといった危険な目にもあった。

 

ついに父母がともに過度の疲れから病気を併発し入院沙汰になってしまった。日本人の医療環境は著しく悪化していた。その中で父母の看病が続くが、14、5歳の著者は献身的に努力をする。

そして、ついに引揚げざるを得ない状況下、子どもだけの帰国をすることになるのだが、その途上、父母の病死の知らせを受け葬儀に立ち会う。そこに到る経過はこの日本少年の痛ましい献身的働きによるもので、読者は深く涙を誘われる。

引揚げ船が天津の港(塘沽:タンクー)を出て行く。

「船が桟橋を静かに離れはじめると、船じゅうの人がデッキに出て右舷に鈴なりになったので、重みで船が危険なほど傾いた。船員はあわてて人びとを左舷に散らした。船は、かつて彼らが一度は抱いた大陸への希望と野望と、その後に訪れた挫折が織りなす過去をそこに残したままゆっくりと岸壁を離れていった。汽笛が鳴った。」

過去の幸福な時代の父と母子の光景がだぶっては消え、しだいに遠のいていく。

「長いあいだ、私たちの人生があった大陸、父母が安らかに眠っている大陸、私は父母に最後の別れをした。悲しみがどんなに切ないものか、私はいやというほど知ったのだった。

こうして私は15年の最初の人生を終えたのである。」

 

最後の一行は、著者の人生、最初の一区切りが終わったという意味である。その後の人生においてこの時ほどの過酷なことは二度と起こらなかったと述べている。

しかし、人生が終わりに近づくにつれ、少年時代の瞬間の記憶が、突然、魔法のランプから立ちあがってくる巨人のように浮かびあがってくることがあることを明らかにしている。

近現代史を教えられていない若い人たちにぜひ読んでほしい本である。


(2008.11.22) (2017.04.06)  森本正昭 記