「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 008
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渡辺洋二 『死闘の本土上空 B-29対日本空軍』 文春文庫、2001年

 

 

 

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私(筆者)は少年時に明野飛行場の近くに住んでいた。ここは陸軍の戦闘機乗りの養成校でもあるので、上空に日本の飛行機を眼にすることが多かった。ところが空襲警報が発令されるとまったく姿を消し、B-29がゆうゆうと編隊を組んで上空を通過していくのを何度も見た。子供心になぜ戦わないのかふがいなく思ったものであった。飛行機の性能に格差がありすぎて戦う気力もしないのだと思っていた。

後に渡辺氏の著書を見ると、決してそうではなく貧弱な兵器で果敢に戦闘を挑んでいた陸海空軍の勇士たちがいたことを知らされることになった。著書のオビに、「零下50度、秒速60メートルの突風が吹くその場所は、自らの酸素吸入器の音しか聞こえない孤独の世界だ。本土上空1万メートル、愛する者たちを守るため、肉体を弾丸に変え、B-29を迎え撃った男達の壮絶な記録」とある。冒頭には、中国の成都からの日本本土初爆撃に飛来したB-29を迎え撃った「屠龍」部隊の操縦者たちのドラマが描かれている。おりしも南方では米軍が大輸送船団をもってサイパン上陸を開始した時期である。このとき初めて日本軍はB-29を目の当たりにし、また戦うことになった。

飛行機の性能は著しく立ち後れていたし、電波兵器(レーダー)の開発は著しく遅れていた。さらに陸軍と海軍が別々に開発を進めていく不効率さも関係している。威力のある高射砲の開発もできていなかった。実戦経験者・小園安名中佐の提案した斜め銃ですら容易に実現しない。これは固定機銃は基軸と平行に装備されるものという固定観念から抜け出せないためであった。やっと実現した実験機が夜戦でB-17に斜め銃の弾丸を撃ち込み2機を撃墜して成果を証明して見せた。これなどは数少ない成功事例で、兵器の格差は開く一方となり、末期には体当たり攻撃しかないところまで追い込まれていく。

ところで日本の本土防空部隊はB-29を何機撃墜したのだろうか。その疑問に対する答えは本著には記述がない。米第20航空軍の『日本本土爆撃慨報』によると、1944年11月24日から1945年7月29日までの統計によると304回の出撃、延33,047機のうちB-29485機、戦闘員3,041名を失った(アメリカ軍の日本焦土作戦、河出書房新社より)。この数字には戦闘ではなく事故も含まれているが出撃機数に対する比率は1.4%位で損失は微少だと書かれているが、当時の兵器の格差から見れば決して少ないとは言えない。

著者の取材力、情報量に圧倒される。これは「あとがき」をみると理解できるのだが、このあとがきがとても面白い。著者の数ある著作の中で、一番印象が強いのが本書であるとし、「日本の軍航空における最大の関心事である」ことをその理由に挙げている。

雑誌社を退職し一年間の時間となけなしの貯金を使わせてくれるよう妻にお願いしている。100名におよぶ回想談話と提供資料をもとに原稿用紙に向かう。副食代にも窮してやむなく手塚治虫の古い漫画本を売りに出すなど生活感があふれている。これを読んでから本文を読むと一層興味が持てる。写真が多数挿入されているのも理解を促進してくれる。

 

 

(2006.11.05) (2017.03.09)  森本正昭 記