「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 005
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野村 進 『海の果ての祖国』 
講談社文庫 1991
年  

 


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これは南洋開拓30年の夢と挫折を描いたドキュメンタリーである。著者の20代の後半はほとんどこの仕事に費やされたが、それを後悔する気持ちは全くないとあとがきに書かれている。著者の精力的な取材や文献収集の多さに驚く。

山形県の山口百次郎は1915年幻のボースン鳥で金儲けをする目的でサイパン島に漂着する。サイパン、テニアンでの生活は挫折の連続であるが、それでも次第に土地の人となって生活がなりたつところまでに至る。自立した農民ではなく、南洋興発という搾取企業の小作人としてである。もっと多くの日本人移住者が必要だと告げられると、帰国して郷里の山形県人に移住を勧誘する。サイパンに移住した日本人の内、山形県人が沖縄・東京・福島に次いで多いのはそのためである。石山一家はその勧誘に乗った家族であり、この小説で山口一家とともに大切な役割を果たしている。百次郎はガラパンの目抜き通りに食料品店兼飲食店・山口商店や彩帆閣という旅館兼料亭を経営し、南洋成金と言われるようになった。石山は農業に従事し南洋開拓移民募集の宣伝映画に登場したこともあり、豊かな暮らしを維持できるところまで来るが、次第に戦渦に巻き込まれていく。

第一次大戦後に敗戦国ドイツから委任統治権を奪った日本はこの南洋の地域を日本本土防衛の生命線として位置づけ地域開発をしていく。そのため次第に軍の力が大きく関わってくる。本土で行われていた皇民教育がここでも展開される。彩帆(サイパン)神社は在留邦人の氏神としてよりも、国家神道の一つの拠点として役割を果たす。内地の動きになんとか遅れまいとする南洋諸島の人々は、自ら進んでそうするかのように、戦争への奔流に飲み込まれていく。

製糖業をはじめ産業としての成果は南洋興発という会社が開発を推進し成功を収め、富を蓄積し、さらに経営者はオランダ領ニューギニア買収案を説いて回るなど鼻息が荒い。

しかしミッドウェー海戦に敗北した日本海軍は制空権、制海権を失い、米軍はじりじりと島づたいにマリアナ諸島に近づいてくる。そしてその中心にあるサイパンは日本本土空襲の可能な地点にあるため日米両軍とも熾烈な戦いを展開することになる。サイパンの中心街はガラパンという街並みで最盛期には本土の都市と変わらぬくらいの繁華街を形成していた。それが戦場となると一夜にして廃墟と化していく。この地域の繁栄を夢見ていた日本人達はもろくも崩れていく。日本人だけではなく朝鮮人、チャモロ人、カナカ人たちも戦争に巻き込まれていく。

戦況が傾きかけた頃、海軍中将・南雲忠一が、ガラパンの中部太平洋方面艦隊司令部に長官として着任する。南雲は真珠湾攻撃の司令長官であったが、第2波攻撃を実行せず悔いを残した。ミッドウェー海戦で大敗を喫し、姿を消していたのだが、サイパンに送り込まれてきたのだ。最後の総決起の時の南雲の訓示は生きて虜囚の辱めを受けずと、徹底抗戦と玉砕を呼びかけるのだが民間人には一片の配慮も読み取れない。そのため戦闘はいつまでも終結しなかったと著者は指摘し憤っている。朝鮮人を含む日本の民間人は2万4千人のうち、1万2千人が犠牲となった。他にチャモロ、カナカ人が3千8百人のうち、400人以上の犠牲者が出た。小説の主人公の家族も水と食料がないまま山中や海岸をさまよい大切な家族を失っている。生きながらえたのは奇跡的ですらある。

生き残った者は捕虜収容所で暮らし、その後日本に引揚げてくる。船が横浜港に着岸して最初に尋ねたのは日本は勝ったのか負けたのかという質問であった。日本が負けるはずはないと信じていたからである。捕虜収容所で生活し、天皇のラジオ放送を耳にしてもなお敗戦を信じてない。海外での日本人を犠牲にして内地の人は守られたのではないかと疑念を持った。天皇をけしかけて降伏させたのではないかと引揚げ者達は感じていたのである。

これらの記述が、次々と展開され読者を引きつける。もしこの著者の労作がなければマリアナ諸島における南洋開発の歴史は人の記憶にとどまることはなかったであろう。サイパンでの戦記を描いた小説は幾冊もあるが南洋開発の民間人の側から描いたものは他に求めようもない。

 

 

 

(2006.11.05) (2017.03.08)  森本正昭 記