「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 087
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東京空襲を記録する会編
表紙には新聞各社の大空襲の記事が貼り付けられている。
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第4巻は報道・著作記録集である。ここには新聞、雑誌、ラジオの報道記録、報道統制の記録、戦後報道の記録、米国側報道の記録ほかが集積されている。読み応えのある資料になっている。注目すべきは米国側報道の記録の中に、この空襲を指揮したK.E.ルメイの著作があることである。 戦中報道には報道統制にかかるものがあるのはやむをえない。米国側にもあった。しかし日本の報道はいかにでたらめであったかが、この巻の多くの資料が明らかにしている。 序論に「日本の戦中報道は、私たち庶民の目からみると全くのフィクションであった。私たちはそのフィクションに怨みを感じた。その怨念が『東京大空襲・戦災誌』を生む原動力となった」と書かれている。 昭和20年3月10日の東京大空襲の後での日本と米国の報道を見てみよう。 大本営発表では「本3月10日零時過ぎより2時40分の間B29約130機帝都に来襲、市街地を盲爆せり/この盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時30分その他は8時頃までに鎮火せり/判明せる戦果撃墜15機、損害を与えたるもの約50機」 『ニューズウィーク(1945.3.19)』最大の火焔、アメリカの爆弾によって猛爆され、東京は17時間も激しく燃え続けた。300機以上のB29は日本の首都に対して、この戦争で最も劇的、壮観な空襲といえる一撃をくわえた。 敵の抵抗は軽かった。たった2機の「超空の要塞」が帰還に失敗しただけだった。 『ライフ(1945.5.21)』日本は明日にも降伏するはずだ。それは必ず起こるはずだ。ジャップにたいしては憎しみが自然に湧いてくる…それはかつてインディアンたちと戦った時と同様に自然なものだ。その上、復讐は快いものだ…我々は真珠湾とバターン以来、復讐することが山とある。 敵方の盲爆によるわが方の損害は軽微で、敵方には大きな損害を与えた、皇室はご安泰、これが昭和17年4月18日のドゥリットルの初空襲以来の空襲報道の典型である。 3月10日の東京大空襲で米軍は新しい空襲作戦を実行した。夜間空襲、低空飛行、編隊ではなく単独飛行、爆弾でなく焼夷弾で市街地を焼き払う。これは東京の家屋は燃えやすい木造が密集していることを知っていたからである。 焼夷弾への対策として、日本の軍部が指導していたことは「体当たり消火」作戦である。空襲にあっても、庶民は持ち場(近隣の家)を守らなければならなかった。そのため多くの死者を出す結果となった。あたり一面、火の海となる中で、体当たりも、バケツリレーも意味をなさなかった。これ以降は、体当たり消火をやめて、まず逃げることが常識となった。しかしその常識が全国的に伝えられたのではなかった。そのため地方で初空襲にあった人びとは持ち場を守ろうとした。私の家族は焼夷弾の火勢に押されて、家を逃げ出したことを覚えている。そのため、隣保の防空班長からひどく怒られたことを忘れることができない。 私はルメイ(第20航空軍司令官)自身が書いた「無差別絨毯爆撃への道」に強い関心をもった。悪魔の司令官と思っていた人物の考え方を知りたかったからである。彼の持論の絨毯爆撃は、東京以前にドイツの空襲、中国鞍山、漢口市街のほか、神戸などで試験済みであった。 しかし夜間攻撃、低空、機銃を携行せず、編隊でなく単機進入のルメイのアイデアに、搭乗員たちは撃墜される恐怖におびえたに違いない。撃墜され、捕虜になったときは、すみやかに日本軍に捕まるように努めよ。日本の市民らは君らを殺すだろう。軍ならすぐ殺さないだろう。また陸上ではなく海上に不時着せよ。日本の陸海軍は仲がよくなく、海軍の方が陸軍より君らをよく待遇するだろう。と訓示していたが、捕虜になったらで始まるこの訓示に“こん畜生”、と搭乗員たちは怒りをあらわにしたという。 大都市を焦土化する無差別絨毯爆撃、それが大量の殺りくを意味することには何ひとつ触れていない。殺りくには何のためらいも感じなかったのだろう。 彼が熱中したのは、自分が考え出した戦術の優秀性を証明しようと躍起になっていたことである。これからの戦争は空軍力によることを確信していた。しかし古い海軍のハルゼイ提督やニミッツ提督と意見が合わなかった。航空軍総司令官・アーノルド将軍は勝利を焦っていたため、前任のハンセルを更迭し、ルメイを起用することになった。人との意見の相違は無視された。 日本海軍の巨艦主義の戦略が航空力を認めようとしなかったことと同じである。米国でも海軍が航空力を理解するには長い時日を要したと書かれている。 これ以外に、文化人や政治家の空襲・戦災の日記、記録,文学作品が集積されていて価値の高い資料集になっている。
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