「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 022
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高木俊朗 『特攻基地・知覧』
角川文庫 1973年

 

 

   

 

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この本は陸軍の特攻隊基地・知覧から出撃していった特攻隊員のありのままの姿を伝えている。実に痛ましい。いま知覧といえば痛恨哀切の史跡となっている。

「新聞などの報道では、特攻隊員は、にっこりと笑って機上の人となったと、いつも書いてありました。しかし、心から笑えた人はいないと思います。笑い顔をしたのは、そうしなければ、泣き顔になってしまうからだろうと思うのです」と戦後になって河崎伍長はその心情を披露している。

このような特攻隊員はいずれも17〜20歳の学徒出陣した学生や若い志願兵が主である。彼等を温かい心で支援していた地元奉仕隊の女学生や、食堂や旅館の女主人たちが献身的な働きをしていたことがわずかに救われる思いがする。

 本文の中に2個所、“鬼気せまる”という表現が使われている実話が書かれている。特攻隊員本人ではなく、その家族の痛恨の想いが現実を超越してしまい、ついに鬼気せまるものを感じさせてしまう。悲惨というべきである。

一つ目は、「残された者」とタイトルがつけられている。特攻隊長として知覧から出撃した黒木国雄少尉の父の話である。父・肇は忠君愛国一途に生きてきたので、息子が特攻隊として出撃することを家門の誉れと喜ぶ。わが子をお国にささげるのは、日本国民の至誠である。長男国雄が生まれたときから、軍人に育てようとしてきた。予備士官学校の入学試験のときには、二重橋前に行って、皇居を拝し、陛下のために国雄の命をささげることを誓った。入学と決まったときは、父は無上の光栄と感激した。航空士官学校に入校し、国雄が故郷延岡に帰郷すると、黒木一家は国雄の航空将校の晴れ着を見て「わが世の春」といって喜んだ。

しかしこの帰郷は別れを告げるためで、やがて遺書が送られてくる。父は子の骨を拾いに行く思いで知覧に赴く。息子は出撃したけれど、機体不良で帰還していたので面会することができた。再度出撃にあたって、父は「必ず航空母艦を沈めてください」と何度も繰り返していう。いまこそ、天皇陛下に、わが子をささげるときである。父の胸中には、忠良な臣民としてのつとめをはたしたという思いがあった。

終戦の年の6月29日になって、郷里の延岡市は爆撃を受け、黒木の家は全焼し、家財道具を失った。しかし、父は特攻隊のある限り、日本は断じて勝つことを信じていた。それから2ヶ月もすると、日本は降伏した。この時の父の受けた打撃は大きかった。いっぺんに年を取り、元気さを失った。やがて息子を死なせたことは、名誉どころか、終生の恨事となるのである。もはや人が変わったようになり、家族ですら鬼気のせまるものを感じたという。

もう一つの話は夫が出撃するのを飛行場に飛び込んでいって、引き留めた山北少尉の妻の話である。そのようなことが本当にあったのかと思うが、戦友の話から実話であろう。別離の悲しみが気を狂わせたのだろうか。髪を振り乱した狂女の姿は痛ましい。夫はそんな妻を殴り倒すのだけれど、妻はそれに懲りないで引き留める様は想像にあまりある、鬼気せまる場面である。結局、そのためかやがて終戦となり、山北少尉は生きのびることになった。妻の思いが憤死を阻止したことになる。

出撃する特攻機の操縦席には奉仕隊の女生徒が桜の花を飾ったという。

 

 

 

(2006.11.05) (2017.03.14)  森本正昭 記