「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 088
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佐藤さとる
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この本は1959年に私家版で出版されている。おそらく戦中の時期に体験した空想の世界をファンタジックに書き残したものではないだろうか。戦後に書かれた児童文学の名作の一つと称されている。 神戸の大震災のとき、この本だけはと肌身離さず持ち出した少女がいたという話をネットで読んだ。 私は題名にひかれてこの本を読むことになった。当サイトでは戦争関連の小説や記録を取り上げてきたので、分野外のものなのだが、読み進めていく内に、これは戦争の社会的影響を強く受けているなと感じてしまった。文中に戦争体験が散見するが、それは周辺説明であって、主題ではない。それらしいことはほとんど書かれていないのだが、現実に背を向け、無垢で美しい世界に生きている「ぼく」の背景を考えてしまう。 主人公のぼくは小学校の3年生。町のはずれにある小山は、ひとりで遊ぶにはもったいないくらいの場所だった。四季を通して静かで美しい小山。 「こんなにいいところは、きっとどこにもないと思った。いつかぼくが大きくなったら、この小山を買って、自分のものにしたいと考えた。(それまではだれにも教えてやるまい)」 「この山はぼくの山だぞ!」ぼくは思わずそういった。 ただ、この山は鬼門山といって、近よってはならない、えんぎのわるい山といわれていた。里人はなんとなく近づかない山だった。そしてここには小人(コロボックル)が住んでいたのである。 コロボックルたちは、理解者を求めていたので、ぼくを理解者として受け入れようとした。ぼくはその小山を小さな国にしようと考えるようになる。 国を作ると、それが「だれも知らない小さな国」であっても外敵ができ争いが起こる。このお話の中でも、コロボックルの住処を奪うような道路計画が動き出すと、小人たちはパニックに陥り、あらゆる手を使ってこれを排除しようと試みる。おもしろいのは工事を進行しようとしている関係者の夢の中に入り込んで、その計画を変更した方がよいとささやきかける。もっと奥の手は蜂の毒針を差し込むというようなこともやりかねない。 空想の展開には、意のままになる協力者が必要で、協力者によってどんな難局も乗り越えていく。かわいい女性も加わって空想は現実的な広がりを持つようになる。協力者は忠実に働いてくれる。 小さな国のコロボックルの話は作者自身の個人的願望によって書かれている。読者を意識していない。だが続編が次々と出版されているのは、読者を意識して書かれている。次第にファンが広がっていく。 ところで北海道の足寄町では背丈が3メートルにもなる巨大なラワンブキが特産物になっている。その群生するフキの下で農作業をしていると、普通の人間がまるで小人に見えるという。コロボックルとはアイヌ語で「フキの下の神様」を意味するらしい。この童話にもきれいな小川のあたりにはフキが茂っていて、フキの香りが漂う。そこにコロボックルが出没することになっている。 無垢の少年が、現実の世界から目を背け、空想の世界に生きようとすることは、ままあることだ。現代ではインターネットの仮想社会に生き、セカンドライフに浸る若者も多い。本の世界に逃避することや、ゲームの世界に逃避することも、現実を無視して生きるための適応の姿であるし、許されることではある。個人の自由である。しかしそれが排他的な逃避であるならば、決して問題解決にはならない。そのような生き方は必ずしも幸せな感情をもたらさない。現実を無視すればするほど、現実の社会は逃避者を追いかけてくる。 でも作者の意図は逃避ではないのだろう。空想を思いのままに完結し、自己世界の支配者となる。そうすることによってこのお話を純粋に美しく保つことができる。これが多くの読者に愛されている存在理由であると思う。
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