「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 064
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河崎真澄 『還ってきた台湾人日本兵』     文春新書、2003

 

 

モロタイ島から台北中正国際空港に到着した中村輝夫(右)を一人息子(左)に引き合わす妻の正子(1975年1月8日)
写真は共同通信提供、この本より。

 

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中村輝夫(民族名はスニヨン)は台湾・高砂族の元日本兵で、第二次世界大戦を最も長く戦った人物である。昭和49年インドネシア・モロタイ島の密林で発見された。敗戦を知らず、約30年もの間、そこで生き抜いてきた。同様の体験をした兵士、横井庄一(グアム島)と小野田寛郎(ルバング島)よりも長かった。この二人は日本で名前が知れ渡っているが、中村は高砂族出身であるためか知られていない。

日本兵として出征しながら、帰国したとき、台湾はもはや日本ではなくなっていた。また妻はすでに再婚していることを知らされることになった。台湾は大陸から逃げのびてきた中国・国民党政権の支配下にあり、日本色は排斥されていた。そこに中村の救いがたい悲劇性がある。

日本は台湾を50年間植民地にしたが、この間、日本の指導によって産業を振興させたことや皇民化教育や日本式社会制度を持ち込んだ。それらによって台湾はその時期、世界でもまれにみる発展をとげたという。皇民化教育は高砂族にも浸透していった。高砂族に文字を教え、日本の教育を教えた。

公用の場では日本語を使用することを命じた。初等教育での日本語教育、国語講習所において子供から大人まで日本語教育に努めたことによる。高砂族は文字を持たなかったので、その教育は急速に普及していった。言葉だけでなく日本精神、大和魂を植えつけている。中村は戦後30年を経てモロタイ島で発見されたとき、標準的な日本語で「ニッポンはまだ負けておりません」といっている。高砂義勇兵の生き残りの人々は、日本からもっと学びたいと一様にいう。「私は今でも、日本人と思っております。心の中で」と答える者もいる。

戦後になって日本は台湾を、高砂族を捨てたのに、かれらは恨みごとを言わず、日本精神を持ち続けた。現代の日本人が見失ったものがそこに残っている。「高度に発達した複雑な社会だけが幸福ではないという当たり前のことを、いまの日本人に教えてくれている」「知識に汚れていない純粋な人間性を感じる」と『スニヨンの一生』(文藝春秋)を書いた佐藤愛子氏は言っている。

「もし今、日本が戦争をするなら私も立つという気持ち、山より高いです」と念願だった靖国神社を参拝した台湾人日本兵はいう。日本精神は今なお生きているのだ。ところが日本政府は台湾を見捨てていて、高砂義勇兵や台湾から出征した人たちに何ら報いることをしていない。感謝の気持ちを表すこともしていない。

さらに本の「あとがき」に書かれている以下のことに私はいたく感動を覚えた。

河崎氏の取材に当たって協力してくれた台湾の関係者と食事をしているとき、「ふとたがが外れた。自分でもまったく予期していなかったのだが、どうしても涙がとまらなくなった」。かつては日本であった台湾のことをこんなにも知らない自分が恥ずかしくて泣きじゃくったとある。著者のそのときの気持ちが読者に伝わってくる。さらに台湾前総統の李登輝氏が寄稿している。かつて台湾人が日本統治時代に学んだ日本精神が台湾近代化の原動力であると述べている。「社会が不安定さを増せば増すほど、歴史の土台にたつ自らのアイデンティティーが重要になってくる。台湾と日本がいかに関わり、どのような歴史を刻んできたのか。とりわけ若い人たちに理解を深めてほしい」と結んでいる。


(2007.10.02) (2017.03.31)  森本正昭 記