「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 056
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前坂俊之 『太平洋戦争と新聞』 講談社学術文庫、2007年
東京日々新聞 |
先の戦争ではメディアといえば新聞とラジオにかぎられていた。国民は開戦の報道をむさぼるようにして見聞きした。小学生であった私が体験したのは新聞の紙面がしだいに薄くなっていき、終戦時にはペラ一枚になったことだった。 この本を読んだ後のイメージは次のようなものである。 新聞社の編集局、おびただしい資料や書籍、新聞が渦高く積まれている。ここで仕事をしている男が三人と手持ちぶさたながら、いかめしい表情の軍人が一人、部屋の中を歩き回っている。 一人は懸命に社説の原稿を書いている。以前は軍部批判の社説が多いので要注意とされていた。いまでは軍部に協力的な社説ばかりを書いている。当時の新聞は言論取締法規によってしばられていた。整理部員は日夜、時間に追われながら、紙面の整理、編集を行い、分厚い命令綴りで記事が引っかからないよう目を皿にしてチェックしていた。違反すれば、発売頒布禁止とされてしまうからだった。 二人目はどうやら宣伝班の人らしい。軍国美談を編み出すことはないかと頭をひねっている。さらに戦意高揚のため、銃後のキャンペーンとして軍歌や唱歌を国民から募集する仕事をしている。銃後の花、進軍の歌、小国民愛国歌などが流行した。 三人目はこの新聞社の要職にある人で、いつも手にソロバンを持っている。全国の発行部数の推移や収支の計算に余念がない。なにしろ戦争ほど新聞発行に影響力の強いものはない。新聞は自国民にとっての最大のニュースである。それがたとえ軍部による謀略によって作り上げたものであっても無条件で即追認する結果となっていった。軍国主義、愛国心、排外的ナショナリズムをあおれば収入が上がり、社員の生活がうるおった。 軍人はいつも居丈高で、いらいらしながら部屋中を歩き回っている。仕事ぶりが軍部の気に入らないと軍刀を抜かんばかりの勢いで新聞社を威かす役割なのだ。しかしやがて軍部と新聞の二人三脚は進み、新聞の協力ぶりに百点満点をつけ感謝状を贈るに到る。 事実はどうであったかというと、新聞業界全体は、満州事変以後、販売部数は大きく伸びて黄金時代を迎えていた。軍の暴走におののきながら、その反動としてのエロ・グロ・ナンセンスが収入源になっていた。軍部への協力を拒絶すれば、新聞紙の割り当てが得られなかった。これには抵抗のしようがなかった。 このような状況の中で、あくまでもジャーナリストとしての信念を貫いた人もいた。本著の中では次のような事例が紹介されている。 菊竹六鼓『福岡日日新聞』は五・一五事件で軍部と正面から対決した、大新聞の商業主義優先を「新聞の魂を売った」としてきびしく批判した。菊竹は朝日と毎日が商業主義にはしり、「新聞は商品である」と唱えたことを皮肉っている。徹底した軍部批判をした。死を賭てでも、言論を守るという気概を秘めていた。 横田喜三郎は帝国大学新聞で政府の主張に反論。時事新報は連盟脱退に最期まで反対した。 東洋経済新報で石橋湛山は満蒙放棄論を展開。先見性と一貫性はひときわ光っている。 桐生悠々は信濃毎日の社説で「東京大空襲を嗤う」を書き退社に追い込まれる。その後『他山の石』を個人で創刊して最期まで戦った。
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