「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 014
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吉村 昭 『戦艦武蔵ノート』 
文春文庫 1985年

 

『戦艦武蔵ノート』は『戦艦武蔵』の
取材日記がもとになっている

   

 

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雑誌「新潮」に昭和41年9月発表された『戦艦武蔵』の前段階として著者が連載した『戦艦武蔵取材日記』がもとになっている。武蔵はあまりにも巨大で、関係した人間の数も膨大であるため、これを小説にまとめることを著者はためらい苦悩する時期が続いた。「相手はあまりに大きくてつかみどころがないので、取材日記のような形式で、うろうろしながら書いている方が、戦艦武蔵を描けるような気さえしてきた」とも語っている。その経緯と著者が苦悩する姿が詳しく書かれているので読者は深い興味を抱くことができる。そして本著がこの大作家のその後を決定するほどの記念碑的な作品となっていると思う。

吉村氏は「戦争は人間の巨大なエネルギーが根源になっている」ことをしばしば述べている。日本人の大多数は、真剣に生命を捧げてまでこの戦争を勝利にみちびくために行動した。ところが戦後になるとそれをすべて軍部が悪かったとか戦争指導者の傲慢な考え方に導かれていったせいであると言う。日本人だけではない。記録映画を見ると、ドイツ人は、ヒットラーの演説に熱狂しこれを支持していた。新聞も作家も画家も強力に軍に荷担していた。大衆のエネルギーがどのような形を取ったかの究極の事例は特攻隊員の死である。その死さえもいとわなかったエネルギーを直視しなければ、戦争のはかなさ、悲惨さはその姿を鮮明にはしないと著者は述べている。

武蔵という巨艦を生み出す根源は軍部が航空戦の時代の到来を予測できなかった状況判断の誤りだけではなく、大衆のエネルギーを背景にしていることを見過ごしてはならない。このような巨大なエネルギーの蓄積は狂気を生み出すことがありうるのだ。

著者は他人の書いた記述を鵜呑みにして転用するようなことは決してしない。そのため徹底した取材によって事実を確認し疑問を解き明かしている。取材相手の人柄や表情にも注目している。目の付け所は氏独自のものである。著者が異常な関心を寄せたのは、建造中の姿を遠望されることを避けるため、船台をおおったシュロ縄のスダレの存在、最後に沈没するとき、艦は左側に傾き、右側の船腹が露出、その右舷から海に飛び込んだ者は傷を負った者が多かったという話を耳にすると、その原因を聞き逃さない。船底にこびりついた牡蠣によって傷を負ったとのこと、また図面紛失事件と関係した少年のミステリアスなかかわり、など興味深いものがあった。著者が描こうとしたのは、武蔵を媒介とした戦争と人間との関係なのだが、最後に「武蔵」のあまりにも短い命の記録を明らかにしておく。

戦艦武蔵は「大和」とともに、昭和12年度艦艇補充計画の中核であり、翌13年3月29日長崎造船所で起工された。大艦巨砲主義の思想を反映し、国家を安泰に導く不沈艦と考えられていた。昭和18年1月15日に連合艦隊に編入され、同年2月11日には連合艦隊の旗艦となった。その後の戦局の変化、戦術の変貌の前に昭和19年10月24日、フィリピン・レイテ沖シブヤン海において米国艦載機の雷爆撃によりあえなく沈没した。

 

 

(2006.11.05) (2017.03.13)  森本正昭 記