「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 033
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泉 孝英 『日本・欧米間、戦時下の旅』
淡交社、2005年

 

 

 

 

   

 

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副題、第二次世界大戦下、日本人往来の記録

旅といっても、避難、脱出、交換船、引揚げ、外交官の赴任・転任、移送、抑留など、今日の旅行のイメージからはほど遠いものであったと思われる。国の関与と身の危険がつきまとう旅である。

第二次大戦下の欧州・日本間のルートは3つあったという。欧州航路、シベリア鉄道・モスクワ経由連絡路、米国経由連絡路であるが、戦火が広がり、日本が劣勢になるに連れて連絡路は次々と途絶していった。戦時下ではどのような移動もみなドラマティックであるが、ここでは一例として日米交換船のことを紹介する。

戦争開始により、敵国側に取り残された自国民を交換によって移送する。日本からは浅間丸とコンテ・ベルデ号を傭船とし、外国人を移送する。米側はニューヨークからリオ・デ・ジャネイロを経て日本人を移送する。運んだのはスウェーデン船のグリプスホルム号である。東アフリカのポルトガル領ロレンソ・マルケスで相互交換するという手はずである。しかし浅間丸の横浜出港は遅れた。米国が真珠湾攻撃誘導のスパイ容疑のホノルル日本総領事館員をニューヨークのホテルに抑留していて、グリプスホルム号に乗船させていなかったからである。この問題は野村駐米大使とスペイン公使の奔走で解決した。

どの港ではどういう状況であったとか、食事は次第に悪くなったとか、船内では都留重人、前田多門、坂西志保らの講演会が開かれたなどの記述に船旅の情景が蘇ってくる。

著者の泉氏はこのような情景が描かれている資料を多数収集されたことと思う。著者は著名な医学者であって、専業の歴史研究者ではないが、着眼点のよさ、豊富な資料に注目すべきものがある。

無事生還し、後の世で活躍した人々が後日談を本にして出版している場合もあろう。どのような人々が同乗したかも記録されている。しかし戦時下の旅では無事に生還とは行かない場合が多数あったはずである。敵側の攻撃で帰還できなかったり、行方不明になったとか、この場合にはいかにドラマティックであろうとも、その記録は得ようとしても得ることはできない。


(2006.03.15) (2017.03.18)  森本正昭 記