「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 072
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澤地久枝 『暗い暦』
          文藝春秋、
1982

 

武藤章
軍務局長、陸軍中将

 

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この本の主題は極東国際軍事裁判で、A級戦犯として絞首刑になった武藤章氏の小伝である。この本を読んでいると、近現代史の中に登場する人物たち、とりわけ軍人たちの息づかいや鼓動が伝わってくる感がある。

そしてなぜこの人物が死刑になるほどの、どんな悪いことをしたのかと疑わざるを得なくなる。そのため必要なところを読み返したり、他の著書を参考にしたりすることになった。

 武藤章は「2.26事件、綏遠(すいえん)事件、蘆溝橋事件の拡大、米内内閣倒閣など陸軍を主役とする政治劇の中できわだった存在であり、いつもきわめて簡潔で象徴的な言葉を吐く人物」と著者は紹介している。

また武藤には「歴史の決定的瞬間に、火中の栗をひろう役割を演じる出会いがついてまわった。」という。

統制派、皇道派という派閥では統制派の中心人物のひとりと見られているが、それは2.26事件以降、陸軍省軍事課員で永田少将の部下であったことから、つくりあげられたと武藤自身が回想している。

武藤は46歳で軍務局長となったが、昭和にはいってからの歴代軍務局長のなかでいちばん若い。鼻下のチョビヒゲと、丸い黒縁の眼鏡、やや肥満型が特徴である。

大戦前には戦争回避論者だったこと、ヒットラーの権力外交を鋭く批判していたとか、日米交渉にきわめて積極的で、日米首脳会談に随員総代で行く気であり、中心人物の観があったことなど、免罪すべき点が多々あったといえる。

南京攻略のときは「軍の疲労を見抜くリアルさを持ちながら、敵都は目前という血気の大勢に同調してしまう」。「中国戦線にいた2年間は、『国民政府を対手とせず』の近衛声明の副産物のかたちで、汪兆銘の新政府をつくる準備」をしたというマイナス面がある。その後は比島戦線に師団長として投入されている。

敗戦後、東条大将の裁判の証人として呼ばれたのだろうという軽い気持ちでマニラを発つのだが、A級戦犯として巣鴨に収容される。共同謀議の責任を追及された政治的戦争責任者として裁かれた25被告のひとりとなる。

裁判の証言のなかで軍務局長になり損ねた田中隆吉の私怨が判決に微妙な影響をもたらしたという。コール弁護人は、「田中隆吉証言を、栄達をのぞんで得られなかった不幸な軍人の嫉妬心の産物となし、武藤が任務に勤勉な職業軍人であり、世界に共通な軍人としての掟を破ったという証拠はひとつとして挙げられず、訴追がまったく実証されなかったと述べ」無罪を要求した。

著者はむすびにあたって「近衛文麿をはじめとして、文官である政治家たちの政治性の低さ、政治能力の貧しさは目を覆うばかりであったように私には思える。軍人だけを悪玉にして歴史を見ているだけでは、わたしたちの政治感覚はいつになっても鍛えられはしない。」と指摘している。

「暗い暦」の時代の最終ページは勝者が敗者を裁く東京裁判であった。被告側に反論の余地はない。武藤が戦争回避論者だったことの証拠もあげられていない。ナチスに対するニュールンベルグ裁判のような共同謀議も立証されていない。

残された家族、とりわけ妻と子との数少ない制約された面会や手紙による交流が涙を誘う。


(2008.01.07) (2017.04.02)  森本正昭 記