「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 049
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澤地久枝『自決 こころの法廷』
日本放送協会、
2001

 

 

 

 

   

 

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戦後の歴史は自決に始まったといってもよい。昭和20年の8月15日以降のある時期、軍部の要職にあった軍人たちの自決のニュースがあいついだ。

阿南大将の遺言、「一死 以て大罪を謝し奉る」
敗戦にいたった「大罪」を、死をもって天皇に謝罪するということである。大西中将は特攻攻撃の発案者とされ、数多くの若者を死なせた責任をとったのだろうか。国民はそれを当然視した。責任以外にも、国の将来への絶望や閉塞的状況などの原因もあろう。額田担編『世紀の自決』には、568人の自決が記録されているが、澤地氏はこれよりも記載漏れの方が多いのではないかと述べている。

 いずれにしろ、おそろしく重苦しい問題である。その重苦しさを著者は一人の陸軍軍人を主人公にして自決に至る過程を追っている。沖縄出身の親泊朝省(おやどまりちょうせい)大佐である。著者が特に注目したのは子供二人を道連れにした自決であることである。

親泊は陸士37期、騎兵科の首席、同期には2.26事件に連座し、銃殺刑になった二人と禁固刑になった二人がいる。さらに義兄に菅波三郎という名前がしばしば出てくる。どこかで聞いた名前と思っていると、2.26事件で禁錮5年の刑に服したの生き残りである。

‘親泊朝省を知る人はみな「よい人だった」と言う。「やさしくて神経のこまやかな人」、顔を見ただけでにこにこしたくなるような、「あたたかい人」と言う。一族や軍人仲間の敬愛をあつめ、きわめて人間性ゆたかな情の深い人であった。’

親泊はあの悲劇の島ガダルカナル島から生還しているが、兵力の3分の2を失っている。その後は昭和19年、陸軍省報道部・陸軍中佐親泊朝省の活躍が始まる。決戦体制にとって、女性たちの自覚が重要であると考え、女性向けに多くの文章を書き雑誌で発表している。

大西洋憲章からポツダム宣言、これを受け入れるにいたる日本の指導者の姿が延々と書き込まれている。阿南大将を代表とする主戦派軍人たちは、「本土決戦」にそなえて兵力を温存し、沖縄を見殺しにした。最後の一戦によって日本に主導権のある戦争終結に進みたいと考えていたようだ。親泊大佐もこの考え方であった。
 しかしこの考えに国民はいない。敗戦を決断するために、つかむべき機会を失い、誘いに反応できない鈍さ、視野窮策、に陥っていたのだ。

‘「責任」について、親泊朝省がみずから選びとった答えは「死」だった。しかし、彼は死よりも辛い生があることへの理解を書きのこしている。’

親泊の家族4人の遺体は、整然と並び、枕元に雛人形と五月の武者人形が飾ってあった。子供は9歳と7歳。親の手で人生を終わらされる子たち、子供を後に残すのは忍びないという思いが親にはあったのであろう。これはなんと筆者の家族構成、子供の終戦時年齢に一致する。

この様な時代はもう来て欲しくない。


(2007.03.16) (2017.03.18)  森本正昭 記