「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 078
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幸恵『女ひとり玉砕の島を行く』
          文藝春秋、
2007

 

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著者は若い女性フリーライターである(1974年生まれ)。個人または慰霊団の一員として南太平洋の島々、日本軍の玉砕の戦跡を巡る。なぜこの活動をという問いかけに対する答えは明らかではないが、『アーロン収容所』(会田雄次、中公新書)を目にしたことが切っ掛けと書かれている。

南太平洋の島々というと、大変ロマンティックなイメージもあるが、太平洋戦争での日本兵の玉砕の地でもある。戦死者は戦闘で亡くなったのではなく、病と飢えと自決で亡くなった者が多い。まさに悲劇の島々である。ガダルカナル島―餓島、ブーゲンビル島―墓島、サイパン島―バンザイの島といわれている。

司馬遼太郎氏は、かつて太平洋上の島々での戦いを、「戦争というより棄民」と評した。著者は国に棄てられた兵士たちの慰霊碑が朽ち果てるにまかせ、国は何の対応策もとらず、次々と撤去されていくことを嘆く。慰霊碑の管理に対する国の怠慢を指摘する。それは再び彼らを棄民することであると痛烈に非難している。

戦勝国の慰霊碑は誇らしげに建っているが、敗戦国のそれは悲しみに満ちている。

慰霊の旅に出る人のほとんどは、戦争を体験し帰還した兵士かまたは戦死者の近しい家族である。帰還兵はいまや80歳を超える年齢になろうとしている。

戦後生まれの世代である著者は、戦場からの生還者とは決して共有できない何かがあり、その溝を埋めることは難しいと語っている。だから戦争を知らない人間が、安易に「あの戦争を語り継ごう」などと口にできないという。

慰霊巡拝の旅には、時折不思議なことが起こる。それは霊魂が呼び、求め合う世界である。生まれたばかりの子どもを残して出征した父、求め続けた戦争遺児が父の飯ごうを偶然の連鎖の末、捜し出した所功氏の話。ブーゲンビル島慰霊の旅に参加した山本邦彦氏の話。「生後11ヶ月で出征。一緒に生活した記憶のない父。人生の局面で、彼はどれ程父親の姿を探し求めただろうか。そんなとき、父なら何と言っただろうか。叱ってくれただろうか。誉めてくれただろうか。

しかし、父が息子に言葉をかけることは永遠にない。だからこそ、彼はこの島の子どもたちと接することで、少しずつ父との距離を縮めようとしていたのではないか。」と著者は書いている。

私はこの一節を読んだとき、涙がとまらなくなった。私自身も同じ境遇だからだ。私が2歳の時に父は戦死し、父の記憶はない。しかしこれまで父が戦死した戦場を訪れる気にはなれなかった。

なにかとても恐ろしい心的体験の中に自分を追い込むようで耐え難いことに思えた。それでも霊魂が呼び、生きる者が叫ぶ姿を何度も体験した。愛する者が死をむかえた場所を訪れる意味はそれほどあるのかどうか私にはわからない。


(2008.04.02) (2017.04.04)  森本正昭 記