「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 032
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角田房子『悲しみの島サハリン』新潮文庫、1994
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副題に[戦後責任の背景]とある。 樺太は日露戦争後の1905年9月に、北緯50度以南が日本領となった。ロシアは領有権をなくしたが、太平洋戦争での日本の敗戦によって再びソ連領となった。名称も樺太からサハリンとなった。 日本は戦前から戦中にかけて、朝鮮半島の各地から150万人におよぶ朝鮮人労働者を強制連行し、日本本土や樺太で奴隷のように酷使した。樺太では主に炭坑での労働を強要した。強制連行は畑仕事の最中や就寝中を襲う有無を言わさぬやり方であったという。日本が行った朝鮮人大量拉致である。日韓併合により国際法上は日本国籍であったといっても弁解の余地のない恥ずべき行為であった。 この問題はその後長く尾を引いている。日本が戦いに敗れた後、日本政府は日本人の引揚げには努力したけれど、拉致した朝鮮人労働者はそのままサハリンに置き去りにした。GHQ(占領軍総司令部)や南朝鮮米軍政府も引揚げ帰国に消極的な態度であった。 サハリンを支配したソ連は、これら朝鮮人を願ってもない労働力として確保し、帰国を認めなかった。ソ連と国交のない韓国、韓国への帰国に反対する北朝鮮、永住帰国希望者があまりにも多いことを知ったソ連は反ソ、反共的であるとして帰国に消極的であった。 樺太抑留帰還韓国人会にはじまる復帰運動が活動を進めるようになってから、日本の政治家たちもこの事実に目を向けるようになった。しかし、日、米、ソ、韓国、北朝鮮の5ヵ国の思惑や政治情勢に引きずられて先送りされてきた。その間、想像を絶する悲惨さが当事者とその家族に覆い被さっている。 サハリンで長く生活し、ソ連から年金が貰えるようになっても、望郷の念は募るばかりでソ連国籍を捨ててでも、帰国を希望した者が多い。我が身が故国の土に帰ることを希望したのである。そのためサハリンで安定した生活をしていた者でも、妻子と離別してまでも帰国を実現しようとした。 悲惨なのはサハリン在住者だけではない。結婚したばかりの働き手の男が強制連行された後、韓国に残された妻たちはあまりにつらい生活を強いられた。行商、畑仕事、農家の手伝いなど死ぬほど働いて夫の家庭を支えてきた女性が多い。40年以上も夫の帰りをあてもなく待つことになった。 複数の国家の命運に個人の自由が奪われ、政治家の努力が空回りしている様子が読み取れる。日本では議員懇談会を始めとする努力にも拘わらず、個人への賠償を行うといった戦後責任を果たすところまでは行っていない。被害者たちは無告の民であることを強いられ、死の間際になってやっと一部の者が帰国を実現した程度である。しかし帰国したけれど暖かく受け入れられた者ばかりではなかった。あまりにも経過した年月は長すぎたのである。 これらの事実を角田氏はルポルタージュ風に記述している。日本人に憎しみを抱いている被害者たちに取材をすることの難しさを体験されたはずであるが、事実を知らしめるための惜しみない努力を傾注している精力的な活動に感嘆する、感動的ですらある。 いまサハリンは天然ガス開発計画が進展し、日本との関係は深まっている。
(2006.11.05) (2017.03.18) 森本正昭 記 |