「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 034
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川島高峰 『銃後 − 流言・投書の太平洋戦争』読売新聞社、1997

 

 

 

 

   

 

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本著は開戦以降の日本人の意識を明らかにしている。冒頭から驚かされる記述に出くわす。開戦時の1941年12月8日の早朝、「臨時ニュースを申し上げます。帝国陸海軍は本8日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」のニュースが全国民に衝撃を与える。やがて人々を熱狂と興奮の渦に巻き込んでいく。

フランスの通信社特派員ロベール・ギランは同日午後1時半の銀座通りで、日本人の態度に決定的な変化が起きたことを観察している。それは米艦隊に甚大な損害を与えたとラジオが報じたためであると述べているが、それは誤解であった。なぜならこの時点で戦果の発表はまだなされていなかったのである。

午前11時45分に宣戦の大詔が発せられた。正午には君が代に続いて詔書が読み上げられ、東条首相の演説があった。さらに戦意高揚のための歌謡「進め一億火の玉だ」、「宣戦布告!」「太平洋の凱歌」などが流された。実際の戦果が大本営から発表されたのは午後8時45分であった。だから人々は真珠湾攻撃の大戦果を知って安心したのではない。開戦の大詔が渙発されたためなのだと著者は述べている。

国民の戦争に対する決意と戦争目的の確信を導いたのは「大戦果」ではなく、天皇の「大詔」だったのである。人々はこの詔書を新聞記事から切り抜き、壁や日記帳に貼り、よく読むことによって大東亜戦争の戦争目的を理解したのである。これは天皇が国民に発した言葉であり、国民は神聖化されたものとして受け取っている(実際には前々から学者も参画して準備されていた)。

国民が開戦の報に接し感じたことは、「モヤモヤしていたものが一挙に吹き飛んだ」気分であったようだ。アジアを欧米から開放すると言いながら、欧米と戦うこともなく、泥沼の日中戦争は4年に及んでいたからである。

詔書渙発により、国民にどのような変化があったかというと、軍への献金の激増、志願兵の急増、全国の翼賛組織、地方行政機関による決起大会開催相継ぐ、ラジオの購入者の増加、世界地図が飛ぶように売れたなど。逆に映画館や遊興街は客足が減った。特にアメリカ映画は上映されなくなった。犯罪が減少、労働争議は著しく減少したなどの影響があった。

人々は緒戦の勝利に酔ったというが、アメリカは真珠湾攻撃で沈没した戦艦5隻の内、アリゾナを除く4隻の浮揚に成功し、そのうち3隻(カリフォルニア、ウェストバージニア、ネバダ)を改修し戦列に復帰させている。結果として戦艦2隻を失っただけであったということも驚きであった。


(2006.04.15) (2017.03.18)  森本正昭 記