「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 018
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大木とく 『あのころ、満州で…  おにぎりを売った主婦たち』 
十月書房 1983年

 

 

   

 

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兵士が出征するとき、涙を流した人は帰って来られないというジンクスめいた話を聞いたことがある。悲観的なことをイメージする人はその通りになるともいう。女性の場合はどうであろうか。どういう人が帰還できるのだろうか。著者は陸軍将校のご主人の満州勤務にともなって旧満州熱河省承徳で平穏無事な生活をしている。

信じられないことであるが、昭和20年日本が終戦を間近にしている時点で日本のおかれている状況を何ら把握できていない。そのため突然、疎開退却を指令されてあわてて着の身、着のままの脱出行の準備をする。将校の家庭でも新聞にも放送にも接していないのは驚きである。たぶん満州ではB29による日本本土空襲のようなことも少なかったので日本が敗勢にあることを実感できなかったのではないだろうか。敗戦の日以降は一転して現地の中国人に襲われ身の危険にさらされることになった。中国人だけでなく、どう猛な囚人部隊のソ連兵に日本人が蹂躙されるのを目の当たりに見るに付け、将校の夫人たちは先ず子ども達を殺して自分も死ぬという自決のことしか念頭にない。

ところが著者は死ぬのはいつでも死ねる。どうぞ死にたい方はお先へと言う。あなたのその着物や布団は私がいただくわとさえ言う。海の上をはってでも日本に帰る決意を固めている。この事態においてその決意は生きる知恵を生み出すのであろう。でもどうやってと疑問を投げかけられたとき、まず寒冷地では必需品の毛布を売ってお金を作り、お米を炊いておにぎりを街頭で売りましょうと提案する。ところが並の人は高価な毛布を売りに行っても中国人に奪い取られてしまう中で、著者は毛布を握りしめ必死の思いで売ることに成功する。おにぎりを作るにも鍋や竈からマッチ一本、箸一本に到るまで何一つ所持していない。それらを強引に隣家の中国人から借り受ける。商売の糸口をやっとの思いで掴んだことになる。

この本は著者の体験記であり、崩壊する満州国の最後を生活者の側から描いたものとして貴重なものである。しかし、この本は単に終戦時の悲惨な体験記にとどまらない。その時の状況にあった生き方の本であり、今でいえば、ビジネスの成功物語と見ることもできる。第1部おにぎりありがとう、中国・奉天路上おにぎり屋、第2部は“幸せ”求めて、渋谷、道玄坂ファッション店 からなる。奉天路上のおにぎり屋で命をつないだのであるが、あまりの多忙さの中で、三男を失っている。しかし著者の家族は夫妻と子供3人と共に無事に帰国をはたした。その状況は胸打たれるものがある。車窓から焼け野が原の日本の都市を目にしているはずであるが、故郷の森や民家は十何年前と少しも変わっていない姿を残していたと書かれている。

ところで奉天に集結した日本人難民はどうしてそのまま日本に帰国できなかったのか、なぜ路上で販売生活をしなくてはならなかったのかを疑問に思われる方は前掲の坂本龍彦『孫に伝える満州』をご覧ください。著者の場合は将校の家族だけに、満蒙開拓団の人々のように国から見捨てられるほどの悲惨さを味わったのではないと思う。

やがて著者らは東京・渋谷で商売を始めるのだが、著者は時代の流れを瞬時に見通す才覚に恵まれている。赤貧の時代には食べ物屋、それを真似する人が多くなるとローソク屋、薬屋、ソ連兵を使った石炭の仕入れなどと売り物を変えていく。どの仕事も多忙をきわめる。帰国後は貝類の販売、古着屋から呉服屋、時代の流れを先読みして洋装店へと姿を変え、いずれも成功させている。旧軍人仲間が慣れないやり方で商売をするのを手伝っている。家族への配慮をするゆとりは全くないが、旧軍人仲間や親戚の人たちのの面倒をよく見ている。たくましい生命力を持ちまた大変な努力家であることが分かる。

「戦争とは、世の中の文明も、文化も、人間の誇りも、義理も人情も、いっさいを無にするもの。このうえもなく馬鹿らしいものであることを分かって頂ければ幸いです。」で結ばれている。

 

 

 

(2006.11.05) (2017.03.13)  森本正昭 記