「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 030
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岡野薫子 『太平洋戦争下の学校生活』 
平凡社 2000年

 

     

 

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書名どおり戦時下の学校教育の実態を描いたものである。

通信簿は女学校4年の1学期までしか記入されることはなかった。後は勤労動員で軍需工場で汗を流す毎日。卒業式は修業年限が4年に短縮されたため4年生、5年生合同で行われた。『蛍の光』は敵国の歌曲のため禁止、『海ゆかば』を悲壮な感じで歌った学校もあったらしい。著者は最も多感な少女期を軍国主義・天皇制教育をたたき込まれる環境で暮らしてきた。

著者自身の体験を後に同級生の回顧談で補い、実に詳細な記述で満たされている。銃後の守りを描いた他のどの本よりも充実した内容で読み応えがある。類書にないのは、軍国歌謡なる歌が随所に記載されていて懐かしさが込みあげてくることだ。当時は何かというと、国民がこぞって歌う歌ができあがる風潮があった。私は著者よりは8歳年下なので、知らない曲が多い。たとえば『比島決戦の歌』や『嗚呼 神風特別攻撃隊』は知らない。しかし『紀元二千六百年』(詞・増田好生 曲・森義八郎)、『隣組』(詞・岡本一平 曲・飯田信夫)、『歩くうた』(詞・高村光太郎 曲・飯田信夫)などは自然に口ずさみたくなるくらいである。『愛国行進曲』(詞・森川幸雄 曲・瀬戸口藤吉)のように、歌詞を国民から公募した曲も多い。学校でも歌唱訓練が行われた。

著者は、これら軍国歌謡が作られたわけは「掛け声をかけたり歌ったり行進したり、それは思いがけないほど自分自身を変えていく。悩みや怖れをふきとばす反面、思考力は単純になる。言葉のもつ魔力に、自分から従ってしまうのだ。」と書いている。

学校の実習科目での記述や勤労動員で工場勤務を強制されているとき、どんな気持ちで参加していたのかを、女性の感性で表現しているところが特に興味深い。この本の特徴を際立たせている。実習科目の裁縫の時間の教材は、衣料不足のため親にとって頭の痛い問題だった。母親は大変な苦労をして、教材用の長襦袢の布地を用意してくれるのだが、教師からはこんなご時世にこのようなきれいな新しいものを持ってくるなんてと言われてしまう。料理実習で五目寿司を作る。親たちは無理算段をして食材を持たせてやる。母は持っていった人参は余らなかったのと聞く。著者は人参が余って使わずに捨てられていたのを見ていて心痛める。著者の家庭は父親を早くに亡くした母子家庭なのだ。そのため母親は常に世間の家庭に引けをとらないよう、子供に気を遣ってきたのだった。

学徒動員で軍需工場で働く。作業帽と作業服が支給された。母はこの作業服ではあまりに殺風景でかわいそうだと、襟に有り合わせの白いレースをつけてくれた。著者はこの作業服が気に入っていた。それを着ると、一人前の戦士になった気がしたという。友達とこの作業服で記念写真を撮りに新宿伊勢丹の写真室に出かけている(この写真がこの本の表紙を飾っている)。生徒たちは大いに張り切っているのだが、工場の雰囲気は意外にのんびりとしていて女学生の応援など期待していない雰囲気だった。殺風景な工場での生活で何よりの楽しみは、週一回の昼休み、歌手の奥田良三が歌の指導に来てくれることだったと書かれている。

東京大空襲、建物疎開で移転、硫黄島玉砕、卒業後も勤労動員は続いた。その中で進路に迷うが、女子農業教員養成所への進学を決意、敗戦の日もタコ壺(無蓋防空壕)掘りに従事する。最後に「終戦をどう受けとめましたか」と寮友たちにアンケートしている。クラスのほとんどの友達は空襲で家を焼かれ、皆散り散りに地方に散って、各地で終戦の日を迎えていた。

戦時体験の話題は尽きない。

 

 

(2006.11.05) (2017.03.17)  森本正昭 記