「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 096
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小田 実『終わらない旅』
               新潮社、
2006

 

 

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父・ツヨシが亡くなってから、8年も経ったある日、見知らぬ米人女性・ジーンから電話がかかってくる。それは娘・久美子にとって思いもよらぬもので、久美子の世界に強引に押し入ってきたかのようであった。

小説の展開としては、父が留学していたときに知り合ったアリス(ジーンの母)との交流が、父の書いたアリスへの手紙やアリスの日記をとおして明らかになっていく。

著者は平和運動家で、「ベトナムに平和を!市民連合」の中心人物である。人ぞしる論客である。この小説もベトナム戦争に関係する記述で埋め尽くされている。

登場人物は奇妙な暗合でもあるかのように、偶然の出会いによって結びついていく。いろんな組み合わせで登場し、一方がまくし立てるような会話が文中を賑あわせている。だから恋愛小説の形を取った著者の戦争論であり、平和論であり、人生訓と見なければならない。

 

アリスとツヨシは過去に愛し合っていた(偕老同穴の恋)ことが分かる。それは長い中断を経て、再び持続していく。やがて震災による死や病死による結末があり、それをジーンと久美子が反戦の立場から受け継いでいく。

ジーンの父はベトナム戦争で、北爆に出撃した米軍パイロットであるが、撃墜されて捕虜収容所(ハノイ・ヒルトンと呼ばれていた)に捕らわれていたことがある。帰国後はPTSDの状態から、離婚することとなりその後自殺している。

 

久美子の父はベトナム戦争のときは、日本で米軍の脱走兵を匿い、逃がしてやる活動に従事していて、幼い娘の久美子も脱走兵の姿を見知っている。

父の戦争体験は太平洋戦争の末期に、大阪が米軍爆撃機B−29によって,激しい空襲にあった時期に始まっている。そのころの日本はもはや戦力を失っていたので、米軍のなすがままの状態であった。

「地上で空襲を受ける私たち、ただの民衆には何の武器もなかった。私たちは一方的に家を焼かれ、殺された。あれはもう、戦争というものではなかった。ただの一方的な殺戮と破壊だった。」

著者の意識の中で、ベトナム戦争は日中戦争時の日本軍による重慶爆撃、太平洋戦争時の日本全土への米軍の絨毯爆撃、そしてベトナムでの米軍の北爆へ、さらには「9・11」へとつらなり、破壊力は増すばかりである。

そして戦争には、平時には考えられないような虐殺事件が発生する。

「戦争は、うまくいかないときは必ず、司令官も兵士も追いつめられた気持ちになって凶暴になり、残虐なことも平気でやってのけるようになる。ひとつのなまなましい実例が、ソンミでのカリー中隊の一村皆殺しの虐殺だ。」

これはベトナム戦争時の米軍が行った虐殺事件である。

 

ベトナムへのイチゴイチエの旅を提案する手紙がジーンから久美子にくる。そこは行くことの義務すら感じる場所、重い旅となることが予想されるが、一期一会を合い言葉にして、2つの家族とかつて脱走兵を支援してきた反戦活動家の橋本が参加する。さらに旅行案内人を交えている。

ベトナムに戦跡を求めることは容易である。ホーチンミン廟、大統領官邸、ベトナム人僧侶の焼身供養の場所、戦争証跡博物館、ホイアン、ソンミ、枯葉剤散布、ハノイ、ハノイ・ヒルトンなど。

ベトナムには戦争が長く続いてきた歴史がある。中国、フランス、アメリカと、いずれも自分よりもはるかに強い国を相手にして戦ってきた。その上でやっと勝った。日本も同じで、長い戦争を体験しただけに、もう戦争はこりごりだ、やっときた平和を大事にしたい、と人々は思っている。しかしやがて好戦の鎌首を持ち上げて、次の戦争をしたがるのはなぜだろうか。

 

「これまで世界は、戦争は悪いことだが、ある場合には必要だ、という共通認識でやって来た。その共通認識を前提にして、文明も文化も発達させて来た。そこでは必要悪としての戦争肯定の思想が、いわばオモテの基本的思想として認められて来ても、戦争を徹底的に否定する、日本の憲法のような平和主義の思想はどうしてもウラの、余分な、つけたしの思想としてのみ存在して来た。しかし今、世界が必要としているのは、この関係を逆転させ、戦争否定の平和主義をオモテの思想として、その原理に基づいて世界のあり方をつくり変えることだ。」

「殺す側からの「殺してはならない」という倫理や論理ではなく、殺される側からの「殺されてはならない」を基本にした平和主義を人間ひとりひとりがもって初めてできる。」

「大統領にしろ、首相にしろ、司令官にしろ、戦争指導者になるような「大きな人間」たちは、いつも集団といっしょにいて、彼個人がひとりで戦争にむき合うことはない。いつも個人として戦争とむき合うことになるのは、自分が起こした戦争でもないのに、戦場に送り込まれて、加害者=被害者になるのは「小さな人間」たちだ。」

ベトナムへの旅に来てよかったと思うのは、「この国の人びと…「小さな人間」の戦いが、この国の革命にもベトナム戦争の勝利にも、確実にあったと実感できたことだ」といわせている。また「この国の人びとたちは無力感に陥っていないと感じられた」としている。

 

「民主主義は元来が「小さな人間」の政治原理のはずです。それが9・11以来、力を失ったアメリカは「大きな人間」の国に変わりつつあるように見える」と言わせている。

 

人はどこまでも終わらない旅を続けねばならないのか。


(2009.01.17) (2017.04.06)  森本正昭 記