「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 090
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H.W.ベーア編集、高橋健二訳編 『人間の声』
          河出書房新社、
1962

 

 

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副題に「第2次世界大戦戦没者の手紙と手記」と書かれている。『きけわだつみのこえ』の世界大戦版といえる。ここには31ヵ国202人の戦没者の声なき声が収録されている。ドイツ人が最多で、日本人はそれに次いでおり17名を数えている。敗戦国の人が多い。

  宅島徳光(学生)1945年戦死

椿の花に、恋人や母のイメージを重ねている。「椿は桜ほど朗らかではない。そして繊細でもない。けれども桜よりも、もっと強烈に、そしてもっとわがままに、自己を主張するこの花が、私は好きだ。」

「世界を冷静に観察してみると、現実が非常に過酷な、そして憂慮すべき時期であることがわかる。」

「ああ、わたしはなんのために戦うのか…。」

椿は日本の温暖な地に咲く花である。それが男鹿半島や宮城県にも群生しているのは北方への移住者が携えていったためであるという。宅島は戦地にその思いを深い愛と共に持ち込んだのであろうか。

 

原民喜 広島で原爆被爆、1951年自殺。

「上海から復員してきた槇氏は帰ってみると家も妻子もなくなっていた。それでも広島に出かけていく。ぼんやり歩いていると見知らぬ人から挨拶をされる。それで挨拶を返すと、結局のところ人違いであるのだが。広島ではだれかが絶えず、人を探し出そうとしているので、よくあることなのです。」

「もう少し早く戦争が終わってくれたら…この言葉は、その後みんなでくり返された。」

「焼け跡にひとり取り残されていると、かすかに赤ん坊の泣き声を耳にし、なんと初々しい声だろうと、なんともいいしれぬ感情がわたしの腸をえぐるのであった。」などと被曝後の鋭敏な感覚の息づきに心うたれる。

 

片山日出雄(予備学生出身)

戦後オーストラリア軍関係戦犯容疑者として、逮捕され、1947年ラバウルで刑死。

敗戦後のことで、軍隊も日本国も何一つ支援してくれない状況下で、絶望と深く苦悶する姿が浮かび上がってくる。それでも、「わたしがここで処刑されるとしても、わたしが豪州人になしたことのために死ぬのではなく、日本が戦時中なしたことゆえに死ぬのであります。神は一個人の能力ではとても手に負えぬ仕事を成し遂げるようにお命じになりました。」と殉教者の道を選らんだのである。

 

マティーアス・エーレンフリート(ドイツ)ヴェルツブルグの司教、町が破壊された後、疎開中にユーリウス病院で死亡。

「われらが美しき町に対して、多数の焼夷弾、破裂爆弾による空襲により90パーセントが破壊されてしまった。地下室から脱出する機会を失したものは、窒息か焼死しました。」あの悪魔のような司令官ルメイの仕業である。

しかし宗教者のこころは「心を謙虚にして、われらは、この不幸がわれらの頭上にくだるにまかせたもうた神の摂理の前に身を屈します。」

「この夜ほど多数の人がお祈りをささげたことはめったにないことでした。司祭たちが祝福と免罪をあたえました。彼らは幾度も聖体を携えて民衆のただ中へ出て行きました。」

 

無名戦士の墓銘碑ともいうべき手記が多いが、名のある人物の著作から抜粋されているものもある。原民喜『詩選集』、峠三吉『原爆詩集』、永井隆『この子を残して』、サン・テクジュペリ『人生に意味を』、『人質への手紙』、バージニア・ウルフ『餓の死。その評論』、シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』などである。


(2008.10.05) (2017.04.06)  森本正昭 記