「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 077
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中島岳志『中村屋のボース』
     白水社、
2005

 

 

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この本はインドの独立運動に生涯を捧げたR.B.ボースの伝記であり、戦前期における日本のアジア政策の背景と思想をR.B.ボースを通して明らかにしたものである。著者は少壮のアジアアフリカ研究者である。あとがきに「私の20代はこの本を書くためにあった」とある。

前半はまるで冒険小説である。面白さに引き込まれていく。後半はR.B.ボースのインド独立運動への執念がみなぎる。彼が行った反英闘争やアジア主義についての政治思想がくわしく描かれている。

20世紀はじめのインドは、英国の植民地統治下にあった。R.B.ボースは時のインド総督ハーディングに爆弾を投げつけて負傷させる事件を起こしている。

そのため英国の官憲からの逃亡生活が始まる。日本に亡命することになるが、当時の日本は日英同盟を結んでいたので、英国外務省は逮捕を要求してきた。行き場を失い、「ボースとグプターの神隠し騒動」が始まる。グプターは同じ独立運動の闘士である。いるはずの所から姿を隠してしまうのだ。それに恋物語が加わるので、ハラハラドキドキの物語となっている。隠れた先が新宿・中村屋(後にインドカリーの有名店となる)というわけである。

R.B.ボースという人となりは、一見したところ、「恰幅の良い豪傑であるが、他人の心を巧みに掴むことのできる細かな神経の持ち主でもあった。戦前期の日本で多種多様な人々に受け入れられた理由は、彼の思想信条の側面以上に、多くの人を惹きつけてやまないその人間力にあった。」という。多種多様な人々としては、孫文、頭山満をはじめ玄洋社・黒龍会のメンバー、中村屋関係者、押川方義、大川周明、緒方竹虎、犬養毅、石井菊次郎など書ききれない。

日本は太平洋戦争を目前にして、インド独立運動の対象である英国をアジアから追放する狙いから、R.B.ボースらの独立運動を支援していたものと思う。

外交の背後には統一的思想が必要である。それは時代によって変化していく。古くは日英同盟、現在では日米同盟を基軸とするか、アジア諸国との関係に重点を置くかは論争が分かれている。太平洋戦争の時代はアジアに基軸が移っており、戦後はアメリカ中心へと変化している。日本外交は思想というより実利的なもので、思想の面ではむしろ一亡命者であるR.B.ボースに学ぶことが多かったのではないか。

祖国に帰ることのできないR.B.ボースは運動といっても、体を張った闘争はできないので、演説や論文による発言が中心である。多くの雑誌への論考発表や全亜細亜民族会議を何度も主催している。

●彼にとっての「アジア」とは、単なる地理的呼称ではなく、西洋的近代を乗り越えるための思想的根拠そのものだった。

●東洋の精神主義が西洋の物質主義を指導すべきことを論じた。

●東洋においては、「すべての生命の根源は一なるもの」であるという思想が共有されていたため、「自己を愛することが他者を愛すること」であるとした。(多一論的宗教観)

英国によるインド支配を打倒すべきと主張する日本のアジア主義者たちが、一方において中国に対するまがうことなき帝国主義者の顔をしていることとどう立ち向かうかがボースの苦悩する側面であった。

結果として「日本の支那事変は日中両国の抗争にあらず」と主張したり、大本営の「マレー作戦とF機関」に協力したり、大東亜共栄圏構想にインドを組み込むよう強く要請した。インド独立のための戦略的観点から日本に同調していった。

そのことが独立運動の同志たちから、日本側の傀儡とみなされることとなり、彼は求心力は低下していくのだった。

1945年、R.B.ボースは祖国の独立を目にすることなく日本で58年の生涯を閉じている。

日本の終戦の2年後、1947年8月15日、祖国インドはパキスタンと分離する形で独立を果たした。

  〈注〉R.B.(ラス・ビハーリ)ボース
チャンドラ・ボース(自由インド仮政府の首班)とは別人物。同じくインド独立運動の闘士で、ドイツに亡命し、反英活動を放送で行っていたが、潜水艦で日本にやってきた。吉村昭『深海の使者』に詳しい。
R.B.ボースの任務を引き継ぐことになった。


(2008.03.20) (2017.04.04)  森本正昭 記