「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 029
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鈴木栄助、『ある盲学校教師の三十年』 
岩波新書、
1978年

 

 

   

 

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この本は遅れていた日本の盲学校教育に生涯をささげた教師(山形盲学校勤務が長い)の記録である。特に戦時体験を描いたものではない。

しかし戦時の盲学校生徒の心情が描かれていることや、戦後に占領軍の力によって、盲学校が義務教育に組み入れられていく過程を読み取ることができる。

戦時には盲学校生徒が聴力の鋭さを見込まれて防空監視哨に立たされていた。聞こえてくる敵機の機種や高度を判別する役割を担うためである。都心部での雑音の中で、飛行機の爆音を識別するために耳をそばだてている姿は痛ましいものであったと著者は述べている。さらに潜水艦の探知士も考えられていたという。

戦時において彼等は障害が故に軍務に就けないので、自らを非国民と卑下せざるを得ない情況にあった。そのためむしろ積極的にその任務に就こうとしたと思われる。盲学校中等部鍼按科の花形は海軍の技療手になることであった。その役割は海軍航空隊員の実戦や訓練による疲労を、マッサージによって回復させることにあった。そこに就職することは難関であったが、戦域の拡大に伴い需要が増え、海軍技療手訓練所ができるまでになったという。

戦後になって、あのマッカーサー元帥による日本占領と支配の時期は、飢えと混乱の陰惨な時代であった。しかし盲学校教育は、この外からの支配者の力を利用することによって改革が一気に進展したと言ってもよい。

その前に日本の盲学校・聾学校教育に大きな貢献をした人はグラハム・ベルとヘレン・ケラー女史であることに触れなくてはならない。電話を発明したことで知られるベルはこの種の学校の専門教員養成機関と府県立盲学校と聾唖学校の設置を促した。ヘレン・ケラー女史は障害を持った子供を、この学校に義務就学させることの必要性を説いた。そして日本国民に強烈な感動を与えた。昭和12年のことである。当時は障害児を持つ親は子供をこのような学校に通わせることを世間体から拒絶していたのである。この義務教育制への要望は教育審議会の答申となった。しかし、その後の戦線の拡大、国家総動員令発令、文部大臣荒木陸軍大将のもとでは何ら実現することはなかった。

終戦後の、昭和21年になって、ジョージ・ストダード博士を団長とするアメリカ教育使節団が来日、義務教育法によって障害児の就学は法制度化されるべきという報告書が出た。またGHQの地方組織、山形軍政部の学校施設状況視察によって、寄宿舎の施設改善勧告が出たことやララ物資の供給などが行われた。軍政部は各県の行政に口うるさい勧告をしたため、戦災にあった盲学校・聾学校の施設は改善された。

極めつけはヘレン・ケラー女史が再度日本を訪問したときのことである。著者や子ども達をはじめ、県関係者が一丸となって、女史の当初予定になかった山形訪問を実現したときの奮闘ぶりは大変なものであったことが紹介されている。真心をこめた「ヘレン・ケラー女史、山形県へどうぞ」という英点字の招聘文を送付し、実現させた努力を記述しているところは胸打たれるものがある。

 

(2006.11.05) (2017.03.17)  森本正昭 記