「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 079
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水野広徳 『水野広徳著作集』第8巻 自伝 年譜、 編集:粟屋憲太郎、前坂俊之、大内信也
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私はNHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」で、水野広徳(1875-1945)を知った。水野は日露戦争の時、海軍士官として水雷艇に乗り組み、日本海海戦で活躍した。また代表作『此一戦』(博文館、明治44年)はその時の体験を詳細に描いた海戦記である。漢文くずしの口語体で書かれていて、今の読者には読みづらいが、当時空前のベストセラーとなった。 第一次世界戦争の最中と後の2度にわたってヨーロッパとアメリカを視察している。 ここで挙げたいことは、すぐれた戦記の著者であったということではなく、軍国主義者から人道的平和主義者へと180度の転向をした人物という点である。 その転機になったのはどのようなことであったのか。 約5年にわたる第一次世界大戦の、死者約1000万人、負傷者2000万人、捕虜650万人であった。そのうち最も激しい戦いをしたのは、パリから北東へ約200キロの北フランスのベルダンという町である。ここでフランス・連合軍とドイツ軍が対峙し、両軍合わせて70万人以上の戦死者を出した西部戦線随一の激戦地である。 大戦終結後に、この地を視察した水野は近代戦のすさまじい破壊力、勝敗に関係なく戦争による国民の悲惨さを目のあたりにして、大きな衝撃を受けた。 「人類は今に於いて平和に目覚めざれば更に恐るべき戦禍に苦しまねばならぬであろう。」 2回目の視察で、軍備撤廃論者に転向。戦争に勝っても負けても悲惨な結果しかもたらさなない。「軍備の縮小では決して戦争を絶滅することはできない。」 「軍備が平和を保証するというのは虚偽であり、錯覚である。」と書いている。 水野の後半生は平和反戦主義者となり、文筆家として日米非戦論や軍備全廃論を唱えた。その先見性には感嘆させられる。 戦争に飛行機が使われたのは欧州の戦争が最初である。彼は空爆をロンドンで体験したが、いち早く東京空襲を予言し警告している。それが実に太平洋戦争の26年も前のことである。 日米戦争を徹底して分析し、「次の日米戦争では空軍が主体となり、空襲によって、東京全市は一夜にして灰燼に帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は国家破産し、敗北する以外にない。」と敗北を予言していた。 軍部の鼻息の荒い時代に、このような主張をし続けるのだから、軍部からの反発は激しいものであったと思われる。発禁処分、発言も右翼から妨害され、当局からは要注意人物として執筆はきびしい管理下に置かれる。 太平洋戦争の末期に、米軍機から水野の過去の論文の一端が、伝単として大量に日本全土にばらまかれた。これは水野が大正14年に中央公論に発表した『米国海軍と日本』の文章の一部で、日本への警告を発したものであった。彼の予言が、日本敗北の間際に降伏勧告のビラとして撒かれたのは何とも言い難い皮肉であり、水野の心境はいかがなものであったろうか。 この自伝は幼少年期から事細かに描かれている。 抜群の記憶力、感受性の鋭さ、反骨精神、不屈の意志、虐げられた者への愛情に満ちている(解説:前沢俊之)。これらによって、軍備全廃による平和への強い信念が産まれてきたに違いない。
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