「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 082
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田上洋子 編『親と子が語り継ぐ 満洲の「8月15日」』
       芙蓉書房出版、2008

−鞍山・昭和製鋼所の家族たち−

 

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タイトルに「親と子が語り継ぐ」と付記されている。サブタイトルには「鞍山・昭和製鋼所の家族たち」とある。満洲といえば、広大な草原、満蒙開拓団、関東軍などが思い起こされるが、この本からもう一つの満洲があったことを知らされる。鞍山・昭和製鋼所の技術者と家族の苦闘する物語である。

満洲では8月15日は終戦の日ではなく、悲劇はここからさらに深まったというべきであろう。母国に帰還できないばかりか、中国のためにそこに留まり、生産活動を継続せねばならなかった人たちがいたのだ。これを中国側からみて留用者という。留用者は終戦時、満洲の各地にあった行政機関、公共部門、その他企業に勤務していた日本人が中国にその業務を引き継ぐため、一定期間の雇用に従事せねばならなかった。だから留用は抑留や捕虜とは異なる。しかし原一貞氏は「民間捕虜」とも書いている。実質的には残留を強制されたのである。

満洲で生きた人びとの悲劇は、敗戦国民として命の保証もない、明日をも知れぬ不安にさいなまれたことであろう。支配者がつぎつぎと替わった。日本軍、ソ連軍、国民党軍、中共軍、さらに米軍の爆撃まであった。ソ連は働ける日本人をシベリヤに抑留するという極悪な行為を行った。鞍山・昭和製鋼所の機械設備を撤去し、ソ連に搬送させた。満洲八路軍は物資と金品の召し上げを行った。

私は著者たちと同年代であるが、満洲で生活したことはない。しかしこの本を読んでいると、情景が音をともなって目に浮かんでくる。印象深いシーンを次に挙げてみる。

 

米軍のB29による鞍山・昭和製鋼所の爆撃の音。「ザザーとたらいの水をあけるようなすさまじい音と共に黒い煙が次々と上がる」。爆弾が95発も命中して、主要な設備が破壊され、生産能力は半減したという。この作戦を指揮していたのは、あの悪魔のごとき司令官ルメイである。

鞍山の三笠街の日本人住宅で、夜間に戸を叩く音、「ホトホト」と忍びやかに叩くのは日本人である。「私は応召軍人です。すみませんが、一夜の宿をお願いできませんか」。これをかくまってはならないと八路軍から厳命されているので、何一つ助けてあげることができない。このあと、千山事件(旧日本軍残留部隊がソ連軍や八路軍を攻撃)が起こる。戸口から立ち去った応召軍人も参戦したのであろうか。

「ボロー マイマイ」という中国人の男の声があちこちから響き、それが重なると恐ろしいほどの地鳴りのようになる(原田タケさん)。留守宅や女子どもだけの家と判ると、かってに入ってきて金品を略奪していく。

1948年2月、国民党軍と中共軍の攻防戦が最終段階を迎え、激しい銃砲声に日本人は物陰で怯えている。やがて銃砲声はぴたりとやみ、突然町中が静寂につつまれたが、その時なんとも言えない恐怖心に襲われたという。

終戦後、中国地区からの在留日本人の帰国は、軍人128万余人と民間人90万人がおり、その実現は中国にとって想像以上の難題であった。蒋介石総統の命令により実現した(第1次遣送)。これは1946年6月に完了している。このころから国民党軍は満洲に進攻を開始、満洲からの日本人の引き揚げは1947年10月までの1年半の間に127万人が帰還の途につくことができた。無事に母国の土を踏むことができたのは、蒋介石総統の以徳報怨の温情と中国が払った大きな犠牲によって実現した、と書かれている。

このサイトで以前に挙げた文献「坂本龍彦著、孫に伝える「満洲」」では、満洲からの帰還はGHQへの依頼によってやっと実現した、と書かれている。これとは大いに異なるのだが、ここで検証する意図はない。

編集後記に、「最近、日中関係は必ずしも良好ではない。日本の刺激的な言動、中国の反日運動は残念に思う。日本も謝罪すべきは謝罪し、戦後多くの日本人が助けられ生き延びている事にお礼を言うべきであろう。また中国も、親達が戦後復興に努力した功績を素直に認めてほしい。…どうか私達の子どもや孫が戦争の現実の一部を知って、二度と再び武器を持たないように、…」と結んでいる。


(2008.06.02) (2017.04.05)  森本正昭 記