「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 085
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早乙女勝元、松浦総三 編 『市民講座「太平洋戦争末期の市民生活」』
          鳩の森書房、
1977

 

 

 

東京大空襲の跡

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昭和20年3月10日の東京大空襲は大量の庶民を殺害したことで、第2次世界大戦の歴史に残る残虐な事件であった。戦争犯罪といってよい。

一夜で10万人が死亡、100万人の罹災者という被害を出しておきながら、その記録が明るみに出たのは、「東京空襲を記録する会」ができてからで、それまでは明らかになっていなかった。この会の目的は人びとの戦災時の記憶を記録にとどめることであったが、会ができたのは、終戦後25年を経た1970年(昭和45年)8月である。

戦時中はきびしい法律(治安維持法、軍機保護法、新聞紙法など)があって、空襲についての報道を取り締まっていた。さらに負けたといわずに勝ったと報道させられていた。

戦後になって占領軍も空襲記事が明るみに出ることを禁じた。占領政策に有害と考えたからである。

さらに日本国が独立した後になっても、報道をためらった理由は理解しがたいが、反米的情報を発掘することへのためらいがあったのであろう。

 

さてこの本の元にあるのは、太平洋戦争下の戦争体験に関する市民講座(東村山市)である。講座内容は第1部「空襲下の市民生活」として、早乙女勝元、安田武、一色次郎、金沢嘉一、石上正夫、松浦総三の諸氏の講演からなる。第2部「わたしの戦中生活」は空襲体験・食生活、精神状況・記録する運動からなっているが、これは座談会の記録である。

 

「東京空襲を記録する会」は『東京大空襲・戦災誌』(全5巻)という大作の資料を世に出すのだが、全国的に空襲と戦災を記録する運動へと広がっていった。

『東京大空襲・戦災誌』は戦時政府、占領軍、その後の日本政府の言論統制に抗して作られたという意味で貴重なものである。

「戦争と教育」の分野で、注目すべき記述を見つけた。

金沢嘉市「戦時下の教育」の中で

代沢小学校の校長をしているとき、ベトナム戦争で北爆する米軍機が沖縄から飛び立っていくことに反対し、朝礼で「日本国の憲法の精神からこれは間違いです。佐藤総理は間違った考えをもっています」と話す。その学校から300メートルのところに佐藤総理は住んでいて拡声器のボリュームを上げるとチャンと聞こえていたはずだとある。

 石上正夫「学童疎開と戦時教育」の中で

学童が疎開地に出発するとき、子どもを校庭に連れてきた父母がそばに付き添って離れないため、いつまでも混乱が続いた。いくらメガホンで声をからしても親と子は離れようとしなかった。(浜館菊雄『学童集団疎開』(太平出版))

何ともいいようのない戦時下の家族の愛情と悲しみが漂っている。

家永三郎は、記録する運動について「かけがえがないけれど痛ましい体験を、体験者が生きているうちに客観化しておく、これが後世の人への大きな贈り物になる」と述べている。

 <参考>『東京大空襲・戦災誌』

(第1巻) 都民の空襲体験集(3月10日篇)

(第2巻) 都民の空襲体験記録集(初空襲から8・15まで)

(第3巻) 軍・政府(日米)公式記録集

(第4巻) 報道・著作記録集

(第5巻) 空襲下の都民生活に関する記録集


(2008.08.06) (2017.04.06)  森本正昭 記