「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 017
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坂本龍彦 『孫に語り伝える「満州」』
岩波ジュニア新書 1998年

 

 

飯山達雄 『小さな引き揚げ者』
草土文化社、
1985   

 

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書名で明らかだが、これは著者が孫に語り伝えるために書かれた満州である。いまでは地図上に見ることのできない満州で、日本人はいったいどんな体験をしたのだろうか。自国の歴史の暗くて陰惨な事実を書き記すことには抵抗があるし勇気もいる。著者は身体に刻まれた歴史を孫に伝えるというスタイルで語っている。それは満州での体験、友人の死、残留孤児、731部隊におよぶ。

著者の家族の場合、著者の父が1942年、単身で満州に渡り、千振開拓農学校の教員となり、その後著者ら家族5人で移住を果たしている。「満州に行けば大地主になれる」という宣伝文句を信じ、夢と希望を抱いて移住した日本人は150万人に及ぶ。そのほとんどが悲惨な目に遭い、命からがら帰国することになるのである。その間、広野の新天地に血を沸かせたものの期待は次々と裏切られていく。

移住した土地はそこで農耕をしていた中国人から安く買いたたいた(奪った)土地であり、そのため定住地を追われた原住民の怒りを買い、撤退するときには逆に襲撃されたりしている。小作料をとって原住民を働かせていた土地も多い。

匪賊に襲撃されることも、年間2万6千回におよんだ年もある。そのため軍隊と同じで銃を持って戦わねばならなかった。農民として移住したつもりが兵隊と同じことをしなければ生きていけなかった。戦死した者も多数に及んでいる。しかし開拓団員は兵隊と同じ待遇を受けていないと不満を漏らしていたという。

この本の最初の部分には満州の歴史が書かれている。満州族のこと、英国の仕掛けたアヘン戦争以後のこと、帝政ロシアの南下政策を背景にしたロシア軍によるブラゴベの大虐殺のような悲惨な事件や反日抗争の土竜山事件などが起こっている。この地域は日本だけでなく列強に狙われていたのである。時代背景は農民にとって安全と豊かさを約束してくれるものではなかった。

しかし早くから移住した開拓民にとって、それは短い期間であったが豊かな時期もあった。その豊かさは満人の安い労働力に支えられていたともいえる。しかし終戦の年の8月9日、日ソ中立条約を破ってソ連軍が国境を越えて侵攻してくるのである。それに対していち早く、守ってくれるべき関東軍は逃げてしまった。しかも橋を破壊していった。侵入してきたソ連兵はドイツで近代戦を戦ってきたどう猛な部隊で、開拓民は武力の格差に圧倒されて退却するしかない。これらのソ連兵に蹂躙されるか、それをおそれて集団自決した村も多数あった。頼みとする日本軍は真っ先に逃げてしまった。そのとき開拓民のために用意されていた列車に軍の家族だけを乗せて逃亡したという。

さらに著者らはソ連軍の労働力として働かされた。シベリヤに送られた者もあった。開拓民は徒歩でハルビンなどの都市に向かったが、これは生き地獄とも言える逃避行であった。このとき幼少の子供を連れて帰ることができず、現地に残してきたことが、中国残留孤児の問題として後々にその陰を残している。このような悲惨な状態に対しする国の対応は実にお粗末で、棄民として見捨てる態度に終始したため、満州からの引き揚げは遅れに遅れた。その原因には大本営参謀、浅枝繁春大佐の超楽観的な報告書の存在があったことが知られている。難民の状態は寒さに向かう中で悪化し、各地の収容所は死体収容所になっていった。

写真家・飯山達雄氏は日本政府の無策に怒って旧満州に潜入し、難民の惨状を写真に撮って帰国、GHQに引き揚げを訴えた。同氏の献身的な努力により1946年8月20日から引き揚げが開始された。

さらに731石井部隊のペストノミ爆弾、細菌戦、についても本著で詳しく記述されている。戦後になって米軍も石井式細菌兵器と似た方式が使われ、それに必要なネズミの飼育が日本で行われていたという記述には驚かされる。

語り継がなければならないのは満州の崩壊は何を物語っているかということである。

関東軍による民間人置き去り事件について、著者は朝鮮人、中国人などの民衆を踏みにじった日本の軍隊は、日本の民衆をも踏みにじっていたことが満州の敗戦史には浮かび上がってくると述べている。

 

 

(2006.11.05) (2017.03.13)  森本正昭 記