「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 074
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野呂邦暢 『草のつるぎ』
            文藝春秋、1974

 

講談社文芸文庫、2002

 

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これは自衛隊員の訓練物語である。著者が入隊したのは昭和32年。「「草のつるぎ」とは営庭にしげっていた萱(かや)科の硬い葉身を指す、または九州各地から集まった少年達の肉体をも意味する。」と「あとがき」に書かれている。匍匐前進という訓練は、手と足で原野をはい進む。硬い草はナイフのように前進する者の身を切り裂く。農夫、工員、漁師などが自衛隊を志願しやってくる。彼ら自身一茎の草ともいえると著者は書いている。

 原野を匍匐していると、草の合間から自然の広がりや仲間の動きが見える。まるで小動物か昆虫の目線である。やっていることは訓練であるが、炎天下ではつらくてけだるい。目標などなきに等しい。

「海東二士(著者らしい)、お前は何を狙って撃っておるのか」

「自分が何を狙って射撃しているのかわきまえておらん者がいる。いいか、壕に立っとるのはベニヤ板の人形じゃない。敵だ。お前たちは自分が敵を撃っておるのだと知らねばならん」

初期の自衛隊では、募集をかけても、隊員は容易に集まらなかった。集まった若者は、除隊後に役に立つ、ダンプカーやブルドーザーの運転免許を取得したがった。募集する側では辞められては困るのだった。

時が経って平成不況の大学生の就職活動で、私は自衛隊に入りたがる大学生がたくさんいることを知り驚いたことがある。安全で安定した公務員という仕事には希望者が多く、入りたくても簡単には入れないと学生達は話し合っているのだった。そうこうするうちに、海外活動は「本来任務」になり、防衛省に昇格するなど、確実に世間の目が変わっていることに気づかされた。

 この本は初期の自衛隊員訓練物語である。若者の進路への悩みを巧みに描いている。自衛隊がどんなところかを知るには、そこに参画してみなければわからない。読んでいて物語は面白くも何ともないのだが、読者は訓練中の隊員になったかのように、すらすらと読むことができる。著者の表現のうまさに吸い込まれていくからであろう。

著者の場合、なぜ自衛隊を?

「ぼくは自分の顔が体つきが、いやそれに限らず自分自身の全てがイヤだ。ぼくは別人に変わりたい。ぼく以外の他人になりたい。どんな人間でも構わない。無色透明な人間になりたい。……すこぶるいかさない草色の作業衣などを着こんで鉄砲かつぎに身をやつしているのも、元はといえばぼくの中にある何かイヤなものを壊したいからだ」と。

なぜこのサイトで自衛隊を取り上げたかは説明しがたい。著者はまばたきひとつしないで人間を見つめ、感じたままを書くことに徹する。それに土と草の感じを楽しむ。

男ばかりの若者の世界を自然なかたちで描いている。戦前の軍隊とは大違いだ。自衛隊=戦力なき軍隊といっても、軍隊には違いない。どう間違っても、攻撃されることはない。敵はベニヤ板の絵なんだから。辞められるのが怖いのか、上官は丁寧な言葉で接している。前線に出た経験のある者は大隊長以外にはいない。切実さは何もない。理由もなく殴り倒されることもない。腹が減るが、腹いっぱい食べることはできる。こんな状況の中で人はどう行動するかに興味がわく。

 訓練、それをやり通さねばならない。それだけが生きていく目標である。


(2008.02.14) (2017.04.03)  森本正昭 記