「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 023
                        Part1に戻る    Part2に戻る

小泉信三  
『海軍主計大尉小泉信吉』
 文藝春秋 1966年

 

   

 

戻る

本を開くと冒頭に、海軍省から送られてきたご子息戦死の電文全文が目にとまる。電報を受け取ったのは昭和17年12月4日であるが、戦死されたのは2ヶ月前の10月22日とある。その時期、南太平洋海戦における戦死である。開戦後1年以内に日本海軍ははや劣勢の兆候がみえるがいかにも早すぎた死である。この本はこのサイトで紹介している数ある戦争を描いた小説や伝記の中でも最もユニークで感動的なものである。

 本文の多くの部分が戦死された信吉氏から送付されてきた手紙で構成されている。他の戦争を描いた小説や伝記にみられる暗くて悲惨な戦争場面の記述は一切ない。むしろ海軍軍人としての生活の楽しさや笑いの記述を随所に見ることができる。過酷な戦闘場面を体験しているはずなのに、一切そのようなことには触れていない。それは信吉氏の温厚な人柄によるものと思うが、家族思いの信吉氏の思いやりのせいであろう。数少ない緊張場面が書かれている手紙もあるが、信吉氏は「戦争の経験は野球見物のようです」と言ってのける。

信吉氏は医者に見放される程の未熟児として誕生する。しかし家族の必死の子育ての中で危機を乗り越えて成長する。暖かい家族である。成長するにつれて、無類の海軍好きの少年となる。中学生の時、イギリスで毎年出版されるジェーンの高価な軍艦年鑑を自分で購入し熟読している。信吉自身が少時の夢に海戦で死ぬことを空想したりしているが、皮肉にもそれは現実のものとなった。

本文の大半が信吉氏の手紙で構成されているので、名文家としても知られる著者(信三氏)の文章はもっぱら解説などの補助的役割を担っている。しかし戦地へ出て行く家族を見送った経験のある者は、次のような文章に身につまされる。

「両親と妹と従弟とが一緒に家を出て満月の夜道を歩いていく。薄雲が時々月の面を掠め、歩道の上の街路樹の影は消えたり濃くなったりした。信吉は品川駅の改札口で後ろを振り向き、白手袋の手を挙げて敬礼し、マントの身を翻してブリッジの方へ闊歩して闇の中に去った。」

信吉氏から手紙が来ると、家中の者が集まって読んだ。彼は筆まめな男であった。少し閑があると手紙を書いたらしい。

艦に帰るとき、「何とも満ち足りた幸福感がむねにせまり、」とある。(信吉氏の)胸にあふれる幸福感に家族の者の胸もまた満たされた。この手紙の後、家族は突然の戦死の報に接する。著者はなぜこの本を残そうとしたのだろうか。著者にとって、願いをすべて叶えたこの青年の生きていた記憶を詳細に描き込むことは想像できない程の辛い作業であったに違いない。

読了感は戦争で家族を失った者の悲哀が十分に表現されており、身につまされるものがある。しかし、一般の読者にはすがすがしい印象を遺しているのは信吉氏の人柄そのままなのであろう。

 

 

(2006.11.05) (2017.03.14)  森本正昭 記