「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 052
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上坂冬子 『硫黄島いまだ玉砕せず』
ワック、
2006

 

和智恒蔵と慰霊碑
(硫黄島協会所蔵写真)

 

 

 

   

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和智恒蔵、あの硫黄島で玉砕した部下の慰霊に、後半生の全てを捧げた人物である。誰をもはばからぬ執念によって精力的にGHQや日本政府に働きかけていく。

元硫黄島警備司令であった彼は戦闘開始の直前に、人事異動によって本土に帰国し生き残りとなった由縁がある。部下をすべて玉砕させて生き残ったことへの深い悔恨の情が支配していたに違いない。

戦後、仏教の僧侶となり、亡くなった兵の鎮魂に生涯を捧げている。竹山道雄の『ビルマの竪琴』を思わせる。人物像は明朗闊達で創意工夫に富み、何事にも極めて積極的で物怖じしない、海軍士官としては珍しい人物と評されている。(市来崎秀丸氏評)

本論とは別に、驚くべきことが書かれている。彼が東京海軍無線通信隊大和田傍受所所長時代の193777日に起こった廬溝橋事件の直前に緊急電報を受けている。「信頼すべき情報によれば、今夜17時、宋哲元の部下の過激分子が現地協定にあきたらず日本軍を攻撃する予定」とあった。もしこれが事実なら、日中戦争開始の引き金は日本側ではなく、中国側にあったことになり、日本の大陸侵略の汚名を晴らす証拠になりうる。しかし、この電文は早い内に握りつぶされていて、それを証明できない。敗戦国の立場は明確な証拠があったとしても不問に付される結果となったであろう。

海外勤務の経歴のある和智は英語、スペイン語に通じている。その利点を生かし、極東軍事裁判のキーナン検事、ウェッブ裁判長に自分の所感を書き送る。硫黄島を慰霊訪問したいという願いをGHQ要人ばかりか米国大統領にも送っている。それは戦後7年目にやっと叶えられるのだが。

謎が深く妖気の漂う事件も起こっている。硫黄島にも生き残りの兵が2人いた。戦争終結の4年後に投降。この物語は不思議さに包まれている。地下に埋めてきた日記帳を取りに行くため硫黄島を再訪問した兵が最後はすり鉢山の断崖から太平洋に身を投じて自殺しているのである。

和智の精力的な活動によって、慰霊の行事は1952年になってやっと実現する。しかし、その後の遺骨収集のために、マッカーサー元帥やリッジウェイ大将に慰霊渡航申請を再三出している。しかしことごとく無視されるか拒否されている。この本の中ではその重苦しいばかりの焦燥感が読者に伝わってくる。

しかし執念を燃やした甲斐があって、劇的な結末が日米の共同慰霊祭として訪れるのである。1985219日、日米兵士の再開が行われた。これは米軍の海兵隊員の提案によって実現したが、和智の提案で『名誉の再会』と名付けられた。戦後40年が経過している。和智は85歳となっていた。和智はたぐいまれな演出家であったという。大胆な提案と微細な配慮をつぎつぎと実現していく演出力について本著に細かく記述されている。


(2007.06.01) (2017.03.26)  森本正昭 記