「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 041
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飯尾憲士 
『艦と人−海軍造船官八百名の死闘』
 
集英社、1983年

 

水中高速潜水艦 伊201型

 

 

 

   

 

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海戦の主人公は艦である。その艦をあやつって作戦を実行する者―用兵者―ばかりが注目を浴びる。山本五十六、南雲忠一や山口多聞などの提督や司令長官がその代表であろう。しかし艦の性能が海戦の勝敗を決定する以上は造船技術を支えている造船官に注目しなくてはならない。ワシントン軍縮条約の建艦制限下にあって、トン数を制限された艦艇に、用兵者は過酷な重装備を要求した。造船官は黙々とその要求に応えていく。

著者・飯尾氏は造船官と用兵者との絶え間ない相克のドラマを描こうと試みたのが本著である。

副題に“海軍造船官八百名の死闘”とあるが、内容は海軍技術中将・福田烈(ただし)の伝記といってもよいくらい、その中心人物が描かれている。当時、海軍の技術士官は用兵者の下に置かれていたので、その地位は一段低く中将が最高位であった。

福田烈は世間では知られていないが、艦艇の建造に関して無類の貢献をしたことで、知る人ぞ知るの権威者である。従来のリベット工法を電気溶接工法に変えたことやブロック建造による著しい工期短縮に貢献した。性格は短気でありながら部下思い、後輩からは慕われた。用兵者とは対等に活きたという。

そして酒豪家としても知られている。その逸話は数多くあるが、日英交換見学(世界の注目を浴びた重巡「古鷹」と英国の誇る「エンタープライズ」)のとき、日本側の見学者は若き福田烈造船大尉であった。英側はまず彼を艦内の宴席に招き、意図するかのように次々と多種類の酒を飲ませるが、福田は“しれっ”とした表情でいくらでも飲み続ける。その足は乱れることなく、艦内を歩む。その情景が目に浮かぶようで面白く書かれている。

電気溶接工法による造船は、当時は絵空事ともいえる技法で、世界では英国の他2,3の国が研究していただけであった。大正9年になって、日本最初の全溶接船・諏訪丸が三菱長崎造船所で完成している。なぜ電気溶接かというと、二つの鋼板の端を重ね合わせて、リベットを打ってつなぐ工法よりも、重ね合わさないでつき合わせて溶接すると、艦の重量を節減でき排水量の問題、重装備の問題を解決できる。またブロック建造ができて工期を著しく短縮できるのだった。戦闘で破壊された艦艇を再生するためにも必要なことであった。用兵者たちは軍縮条約締結により、量の不足を個艦の威力増強で補おうとした。造船官たちはその要求に必死で応えていくのである。

ところが太平洋戦争の勝敗を決定したのは、巨砲を誇る戦艦ではなかった。決め手は航空機と魚雷艇であった。さらに海中からの攻撃をしかける潜水艦であった。日本は戦争に負けたが、造船の技術は世界に誇れるものであったという。敗戦直後、福田は「日本は負けたが建艦技術は微塵も負けていないよ」と技術者たちにいったという。戦後になってこの造船技術は巨大タンカーの建設に役立ち、日本の経済復興に大きく貢献することのなるのである。


(2006.09.22) (2017.03.18)  森本正昭 記