「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 091
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小柳次一、石川保昌『従軍カメラマンの戦争』
                   新潮社、1993

 

 


表紙の写真は朝もやをついて行軍する兵士たち
(昭和13年5月徐洲作戦)

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小柳次一は日中戦争から太平洋戦争にかけて、戦争カメラマンとして活躍した。大半は陸軍報道部の嘱託として軍や兵士を撮影した。その飛び回った地域は中国大陸各地、フィリピン、北千島、日本国内の各地に及ぶ。日本における戦争カメラマンの草分けであり、第一人者といってよいだろう。

  兵士たちが鉄砲をかついで、行軍をしている写真が何枚もある。徐州作戦の「朝もやをついて行軍する日本兵」の写真が表紙に使われている。バターン攻略戦で、熱砂を歩く兵たち、「バターン死の行進」の一場面の写真もある。移動手段がない時代なので、ひたすら自分の足で歩くしかない。鉄砲を重そうにかついで歩く。小柳はカメラをかついで、行軍に同行したに違いない。行軍一千里、その全行程の距離は想像を超える。

  ところで、小柳が戦争カメラマンになる第一歩は名取洋之助の日本工房に入ったことによる。日本工房から上海派遣軍へ出向、特務部報道班嘱託という身分であった。

名取は国策宣伝業を意図していたので、軍と直結した軍需ビジネスへと進んでいく。きっかけは『LIFE』に掲載された一枚の写真であった。日本海軍の艦載機の爆撃で破壊された上海駅で赤ん坊が泣き叫んでいる写真である。反日宣伝として、これはものすごく威力があった。日本軍に圧倒され続けてきた蒋介石側の最大の武器は国際世論を味方につけることであった。日本軍の残虐行為を非難する記事が続出した。

名取や小柳はこれを見てやらせだと憤慨したという。名取は謀略宣伝グラフ誌『SHANHAI』を発行した。日本軍は蒋介石軍閥や共産主義から中国を解放するために進出したことを写真で説明しようとしたのである。

 

この本の中には、小柳が撮った写真がたくさん挿入されている。いずれも兵隊の目線で撮った写真である。軍と行動をともにし、最前線での兵隊の苦闘をリアルに撮影した。その点、新聞社から派遣されている報道カメラマンとはニュアンスを異にする。

 

軍の報道部嘱託という身分から、軍から重宝され、前線各地に派遣されている。命がけの撮影もある。

対露班の班員が上海のロシア領事館の館員を買収して、夜の間だけ暗号解読書を領事館の金庫から持ち出し、それを館員の宿舎で撮影する。スパイ小説さながらである。

大陸挺身隊(中国兵の格好をした日本兵の部隊)に入って柳州から広東へと1500キロを歩き続けたこともある。

国内でも、知覧基地から出撃する特攻隊、熊本県軍基地を出撃する義烈空挺隊、米軍に占領された沖縄の飛行場に、夜間強行着陸して突撃をかける。これは基地に隊員と一緒に泊まり込んで撮影した。

戦争末期に、サイパンを空襲する飛行機に乗り込むことを要請されるが、勇敢にも断っている。その報復を怖れ、しばらく身を隠すため羽田から南京に飛ぶ。そこでソ連参戦のニュースを聞く。8月15日の終戦は奉天で知る。そこへ避難民の群れが押し寄せてきていた。避難用の無蓋貨車に乗せてもらい、帰国を画策する。これが大変な脱出行となるのだが、幸いにも帰国を果たしている。

途上朝鮮でライカを盗まれ、カメラを持たないカメラマンとなるが、このことは原爆の落ちた広島を撮影する意欲を奪われたことになり、放射能に罹災することを免れたとも言えると述べている。

表紙裏に全行程が地図上に記録されている。残念なのは命がけで撮った写真の多くを、終戦前後になって、ネガやプリントが軍の命令で破棄されたため、保存されていないことである。


(2008.10.23)  (2017.04.07)  森本正昭 記