「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 037
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林えいだい 『女たちの風船爆弾』 
亜紀書房、1985

 

 

 

   

 

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先の戦争において日米の戦力には大きな隔たりがあった。アメリカの原子爆弾、日本の風船爆弾をその例示とする場合があるかもしれない。しかし、この本を読むともっと異なる視点があることに気が付く。

アメリカはこの兵器の使用を極度に恐れていたことがわかる。風船爆弾を製造していた中心地は小倉であることを知ると、アメリカは原爆投下の目標地点として小倉を狙いうちしたほどである。気象条件が悪くて長崎に変更されたというのは有名な話である。

そもそも風船爆弾のアイデアソースはアメリカ気象学会での論文発表にあったという。

製造計画では15,000発、発射されたのは昭和19年の11月から翌4月の偏西風の強い時期で9,300発におよぶ。1日150発を打ち上げた日もあったという。重量の重い爆弾を風船に搭載するのは不向きなので、焼夷弾が乗せられたというが、もし化学兵器や細菌兵器が搭載されたならアメリカはどうなったのかわからないという。アメリカでの被害は日本側の投入した労力と費用に比べると、微細なものであったらしい。しかし、全米各地で原因不明の火災事故が起きている。ワシントン州の原子力工場の送電線に接触して停電事故を起こしている。トルーマン大統領は日本が仕掛ける細菌攻撃への恐怖から、原子爆弾使用を決定したという説も浮かんでいる。

アメリカはこの兵器を極端に怖れ、報道管制を敷いた。そのため風船爆弾がアメリカ本土に到達したかどうかすら日本はほとんど知ることができなかった。

この本から知り得たことの内、もっとも重要な点はこれらの戦果ではなく、女学校生徒たちによる献身的な努力が風船製造に注がれていることである。風船はゴム製ではなく、和紙をコンニャク糊で貼り合わせて作られた。この作業のため全国の手漉き和紙の生産地に女子挺身隊や勤労学徒動員の女学校生徒が駆り出されている。学校自体が製造工場化したところもあった。計画では和紙の枚数にして1500万枚が必要だった。生徒たちは日夜働き続け生産し、乾燥させ、つなぎ合わせる。この作業は大変な労働である。それが青春のすべてであったという。この本の中には実体験が固有名詞で詳細に書かれている。

組み立ての過程では、広く大きな場所が必要で、また機密を保持するため、東京では浅草国際劇場、東宝劇場、宝塚劇場、有楽座、日劇、国技館を強制接収して組み立てと満球テストが行われた。そのために庶民の娯楽の場所は完全に占拠されていたのだと知った。


(2006.06.09) (2017.03.18)  森本正昭 記