「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 060
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福田恵子 『ビルマの花』戦場の父からの手紙

 みすず書房、1988

 

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戦場にいる父(秋葉昂氏)と家族との手紙のやりとりが頻繁に続く。しかしある時点から父からの手紙は送られてくることはなくなった。父がいたのはビルマ北部のミイトキーナ、連合軍が中国を支援するルートの要所であった。音信が途絶えたのは、あのいまわしいインパール作戦が中止になった1944年7月以降で、連合軍はミイトキーナへ兵力を投入した時期である。連合軍にとってこの街はビルマ奪還のための第一の攻撃目標であったのだ。

両軍が死力を尽くしたミイトキーナの攻防戦で、この街の陥落は日本軍のビルマ戦線崩壊への第一歩であった。激戦の地でありながら、日本側での記録は少なく、著者の父に関する情報も得られなかったにちがいない。

著者の福田恵子さんは、最初<ビルマ>を、<ミイトキーナ>を、忘れたかったという。どこか深く、トッテモ フカイトコロニ、埋めてしまいたかったと書いている。

この本の全面に父と家族とのあたたかい交流を、現物の手紙の文面で見ることができる。

今でいう絵手紙である。その文面は生活感にあふれるものであったり、幼い子ども達への気遣いが愛情いっぱいに書かれていて涙を誘う。父は工芸科出身なので絵がとてもうまいのである。

ドラマは戦後になって、家族交流の手紙の束を戦場で拾ったという日系2世の米兵カール・米田から手紙が送られて来たことに始まる。著者はやがてこの米兵を次第に父親がわりと感じるようになる。

しかし情報不足の状況からは満たされないものを感じ、父の足跡や行動を少しでも明らかにしたいと感じるようになった。そのため、父の所属した電信隊の機関誌『パゴタ』の会員名簿を入手し、戦友を捜して話を聞き出すことや、戦史資料、戦友会の会報などをむさぼり読むことになる。人の話や資料は貴重だったが、それでもなお、「ビルマの秋葉昴」の姿を視覚的にとらえることはできなかった。

また話を聞いている内に、激戦地でありながら、無事に帰還できた人もいて、なぜ父は帰れなかったのかという疑問が湧いてくる。その事実をさらに追求することに没入していく。本人ですら少し無謀であったのではないかと思えるくらい、その意欲はすさまじいものがあり、胸を打たれる。

 この解説を書いている私も2歳の時、父の戦死にあうという類似した境遇なので、この本の、特に絵手紙を見ていると、自然に涙が目にたまり、幼い頃に父を亡くした以降の体験がよみがえってきて辛く悲しい。しかし心温まる物語でもあることもわかった。

亡くなった人の思い出を抱いて生きている人の生き方は様々である。私はこれまで、父の姿を戦場にまで追い求めることは到底できなかった。記憶にない姿を掘り起こそうとすることは、何か恐ろしいものに出会うのではないかとしてむしろ避けてきた。恵子さんとの違いはどこにあるのだろうかと深い感慨に浸ることになった。

ビルマでは花らしいものは見なかったとカール・米田は言う。しかし、恵子さんの父は軍務の合間にビルマの花を何枚も写生して送ってきている。南国ビルマは花が一杯だったのではないか。もう一つは、やさしい気持ちに包まれたカール・米田のさしのべた手によってビルマの地に美しい平和の花が咲いたといってよいと思う。

(2007.08.21) (2017.03.29)  森本正昭 記