「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 046
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日高六郎 『戦争のなかで考えたこと』ある家族の物語 筑摩書房、2005
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「あとがき」に‘なぜ、いまさらのように「戦争のなかで考えたこと」を書くのか。それはあの戦争が忘れられないからである。そして、戦争を忘れない世代はまもなくいなくなるからである’、と書かれている。さらに、‘今の日本のなかで感じる空気が、満州事変の前と似ている。その総仕上げが憲法「改正」や教育基本法「改正」である’という。この原稿を書いている時点で、すでに教育基本法は改正されてしまったし、憲法改正もスケジュールに乗るところまで来てしまった。過去の体験に学ぶものは何もないかのように、国会では軽々しい議論しか行われていない。そう感じている方々にはこの本を熟読して欲しいし、感じていない人々にも注目して欲しい著書である。 ‘戦後60年のいま、日本は不毛で危険な方向に向かっている。近隣アジア諸国とその民衆の反感の目に包囲されている。これは、直接には15年戦争に対する日本政府の歴史認識が、戦前と連続しているからである。’ 著者は中国・山東省の青島市に生まれ、中学までをここで過ごしている。父親の影響で反戦的であり、日本軍の武力行使に反対している。弟・八郎は家族だけで読む家庭新聞『暁』を小学生の時に発刊している(月2〜3回、手書き12ページ、発行部数1部)のだが、父は中国人老車夫の死を悼む短歌や反国策的短歌を寄稿している。これは83号まで4年半続いたというのは驚きであり、それほど熱中する会話がその中で交わされていたということであろう。 太平洋を舞台とする日米戦争は4年で終結するのだが、それ以前に日中戦争が10年も続いていたわけで、日本は中国を屈服できないまま、アメリカと戦うことになった。その連続性の上で考えなければならない。 青島は世界の列強から狙われた軍港である。日清戦争後、三国干渉(露仏独)によってドイツが膠州湾一帯を租借し軍港を築いた。第1次大戦の時、日本軍はドイツ要塞を陥落させ占領下においた。日高氏が生活をしていたのはそのあとである。中国人の視線は親独排日であったという。さらに太平洋戦争後は米国西太平洋艦隊が司令部を置き、その後、国民政府、共産党政府と支配者が変化した。日高氏のこの地で生活した体験が先の戦争に対する深い読みを醸成させたものと考えられる。なぜ遠く離れた欧州の国々が東アジアの片隅のこの地域に異常な関心を持っていたのかについても、この本は判りやすく解説している。 著者は終戦を目前にした45年7月頃、『国策転換に関する所見』を嘱託として勤務した海軍技術研究所に提出している。その内容たるや、国の指導者を糾弾する内容であり、身に危険の及ぶ内容であった。敗戦後にとるべき諸政策を述べていることにも驚かされる。自由な意見を述べることがまったくできない時代には大変な勇敢な行為であったというべきである。その後、海軍を解雇されているが、やがて敗戦となり、そこに述べられた諸政策が占領軍政府GHQ指令として実行されているのである。
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