「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 009
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伊藤桂一  『遙かなインパール』 
     新潮社 
1993   

 

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インパール作戦は昭和17年に企図されていたが、昭和19年3月に実行に移された。当時、連合軍の反抗に会い日本軍は太平洋一帯に拡大した戦線から撤退に次ぐ撤退を強いられていた。そこで東条内閣は無謀なこの作戦に人気回復の望みを託したのだ。インパールはビルマ(現在ミャンマー)の国境を越えたインドの主要都市でここを占領しようとする作戦である。作戦を推進したのは廬溝橋事件から支那事変を引き起こした牟田口廉也中将と河辺正三大将である。そもそもこの事件が大東亜戦争の発端となったことに対する汚名挽回が動機であったとされる。まるで作戦になっていない無謀な計画はたちまちの内に頓挫して4月末頃には戦力が40%以下となったが、牟田口司令官はなおも攻撃を主張して惨劇を拡大する結果となった。参謀本部も5月下旬には作戦失敗を認め、撤退命令を出している。歴史に残る大惨敗であったとされる。

ところで私はこの本を区の図書館で借りてきた。本の中のところどころに鉛筆書きがしてあり、たとえば「砲兵が到着した」の横に山砲三十連隊××中尉などと実名らしきものが書き込まれいる。生き残りの戦友が書き込んだに違いない。また涙を落としたのではないかと思えるシミが何カ所かに見られた。この本は実戦体験者が読むと落涙するほどの内容が克明に書かれているのだ。著者が「まえがき」で述べているようにこれはインパール作戦についての軍事的な研究書ではなく、参加した祭兵団(第十五師団)歩兵第六十連隊の軌跡を描いたものである。戦場での実感、臨場感を出すことに努めたとある。

戦友には落涙する記述であっても、戦争を知らない世代が読めば、記録に過ぎず、「ひめゆりの塔」の話を退屈だと言った女子高生のように苦痛でしかないのではないか。戦争に参加し戦闘の場面では上官の命令は絶対である。牟田口のような愚将の言うことですら従わざるを得ない。武器や食料もないのに突撃せよと言うことの意味はいったい何なのか。いまの若者にはとうてい理解ができないだろう。この悲劇を後世に伝えるにはどんな表現法を使えばよいのか私には分からない。

しかし私は延々412頁におよぶ内容を逃さず読んだ。全編を敗残兵が白骨街道と呼んだ道筋をよたよたと歩いている。道脇の竹藪から禿鷹が飛び立ったりしているのは兵隊の死肉を啄んでいたのだろう。生き地獄としか思えない有様が描かれている。命令が解除されないから、いつまでも撤退できない状況もある。命令をした上官がすべて戦死したからである。野戦病院では生き残ったものに自決用の手榴弾を渡す。道路脇に古びた靴が並べてある。戦死者のものだ、使ってくれという意味らしい。戦死した戦友の履いている靴をはぎ取って履いていく者もいる。雨期の天候悪化に伴い、マラリア、アメーバ赤痢、栄養失調のため状況は悲惨など。記録であっても後世に残す必要はある。

全編にわたり情景描写はほとんどないのでイメージが浮かんでこない。敵の顔が見えない。また本文に多数の戦闘経過要図が挿入されている。戦友会の人々には落涙を誘うのだろうが、私にはほとんど理解の支援にはならなかった。

 

 

 

(2006.11.05) (2017.03.09)  森本正昭 記