「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 073
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渡辺一夫 『敗戦日記』
日記原文の多くはフランス語で
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編者の二宮敬氏によって、この日記を発見し公刊するに到った経緯が説明されている(解題 渡辺先生の『日記について』)。この日記は1945年3月11日に始まっている。あの忌まわしい東京大空襲の翌日である。そして8月18日に終わっている。この時期、戦禍の東京に留まらざるを得なかった者が書き残した内容に注目が集まる。 「この日記執筆当時、著者は東京帝国大学文学部仏蘭西文学科助教授であり、同学部特設防護団副団長だった。授業のできる状態ではなかった。大部分の学生は戦線あるいは軍需工場・農村に駆り出され、わずかに残った病弱者は研究室図書の松本への疎開に従事するという有様だった。前途ある青年を上司の許可なく図書管理の名目で松本に留まらせ、空襲の激しい東京に呼び戻さなかったのは先生だった」(『世界』1976年1月号)という。 すでにこのサイトでも、戦中の日記としては、竹内浩三、永井荷風、坂本たねを取り上げている。永井荷風の日記では、一日も欠かさない、また克明な生活記録である点が興味深い。それでこの『敗戦日記』も同様であろうと想像した。敵性外国語(フランス語)による文学を研究する学者は、おそらく軍部からのはげしい恫喝や迫害に遭っていたに違いない、あるいは軍事的協力を強制されたであろうと勝手に推測して読みにかかった。 ところが著者の日記は予想外のものであった。日常生活の記述は少なく、西欧の文化について詳しい知識人の立場から状況を憂い、戦中の日本で孤立する知識人として苦悶している姿が見えてくる。軍から恫喝されたなどということはなかったのか、いっさい書かれていない。 戦中にありながら、戦後の第二の人生について希望を抱いている。心配しているのは疎開している家族のこと、友人・学生たちのこと、大量の図書の保管のことである。 6月6日の日記に「この小さなノートを残さねばならない。あらゆる日本人に読んでもらいたい。この国と人間を愛し、この国のありかたを恥じる一人の若い男が、この危機にあってどんな気持ちで生きたかが、これを読めばわかるからだ」と書かれている。この記述が、この日記を公開するための力となった。(二宮氏と大江健三郎氏が夫人を説得したという。) 「3月9日の夜間爆撃によって、懐かしきわが「本郷」界隈は壊滅した。今日、僕はあらためて日記の筆をとることにした。気持ちが変わったのは、筆をとらしめるに足る説得的な理由、いささかの希望を見いだしたからである。 ここに記す些細な、あるいは無惨な出来事、心覚えや感想は、わが第二の人生において確実に役立ってくれよう。」3月11日 「本郷の廃跡を見て思う。こんな薄ぺらな文化国は燃えてもかまいはせぬ。滅亡してもよいのだ。生れ出るものが残ったら必ず生れ出る。 日本は二つに分割される。関東軍によって統治される地域と、若干の、乃至は一つの島に見捨てられた部分と。天皇は満州国に移されよう!」3月15日 「目覚めの時よ、早く来たれ!」6月12日 校了間際になって、戦後の日記(1945年8月18日〜11月22日)が夫人によって発見された。これが『続敗戦日記』として追加されている。冒頭に次のように記されている。 苦難の新日本の発足を 懊悩と危懼とを以って迎えつつ 記録を留めることにする。 新日本よ、正しくあれ、強くあれ、 美しくあれ、
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