「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 068
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逸見勝亮『学童疎開2』 日本図書センター、2003 5年 大坪 修 防空訓練
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絵日記にみる疎開生活
都市圏での空襲が激しくなってくると、学童疎開が奨励されるようになった。学童は足手まといになるためである。文部省は昭和18年末、まず縁故疎開促進を発表、昭和19年3月には閣議で縁故疎開促進を決議している。縁故疎開とは地方に親戚のある家庭の学童をその地に転校させることである。縁故のない家庭の子供は集団で、用意された疎開学園に疎開することになった。しかし疎開学園だけでは収容できないので、お寺や大きな農家に分散して寄宿することになった。 この本で紹介されているのは、東京女子高等師範学校付属国民学校の学童たちの絵日記である。戦時下をしのぶ貴重な資料となっている。この学校の場合、東京の久米川と富山県の福光町の二ヵ所に分宿している。 絵日記を書くことを大切な教育的課題としていたのであろう。これは先生が召集で学校をつぎつぎと去っていったため自習をよぎなくされた結果ではないか。紙が乏しくなっていた当時、絵日記を書くノートがよくあったものだと思う。食べ物をめぐる地元民や地元の子供との対立など一言も書かれていない。この学校の場合は’欲しがりません勝つまでは’が徹底していたのかもしれない。 良家の子女のいく学校のせいか、しつけが行き届いていて、日記や手紙には、親を心配させるようなことはいっさい書かないように指導していたものと思う。ご飯が少ないとかつらいこととかをありのままに書くと先生に叱られたようだ。それでも気力をなくしボーッとし、表情をなくし声も出さない状態が書かれている文章も散見する。 先生や親にはきれいな敬語を使っている点には感心する。最近ではもはや見ることも聞くこともできなくなっている。美しい日本語がここには生きていることに感銘を受けた。 戦争は昭和20年8月15日に終わったので、帰りたいと思い続けた自宅に帰ることができたのかというと、そうではなく自宅が焼失して帰るところもない子や、親が死亡している場合もあったであろう。それで疎開先を引き上げるには、戦後2〜3年の時間がかかるのだった。その間、田舎町でもアメリカ兵を見かけるようになり、その遭遇が文章や内容の変化をきたしていることに気がつく。
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