「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 067
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逸見勝亮『学童疎開1』 日本図書センター、2003
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親もとを離れて 親もとを離れて暮らしていても、子どもの表情は純真で明るい。しかし親は心配でならない。それで政府は楠木正成・正行父子の昔話を使って、親を説得した。ともに従軍しようとする息子を将来に備えるように諭して、故郷に帰したという「桜井駅の別れ」になぞらえたのである。「昭和の楠公父子となれ」といって説得した。この滅私奉公の昔話は小学校唱歌にも歌われていたし、うむを言わせない効果があったという。 集団疎開は劣悪な食糧事情、伝染病発生により、健康を害する学童が多く、決して恵まれた状況ではなかった。それを知って親が引き取りにいった人数も多数にのぼった。また上級学校へ進学するため疎開地から上京し、おりあしく空襲にあった者もいた。空襲で家を焼かれ家族がすべて死亡し、戦災孤児となる者もいた。 記録によると、集団疎開は昭和19年8月4日に始まり、昭和24年5月28日には終わっている。戦争が終結した後もまだ疎開地に留まったのは、帰るところがないとか家族がいなくなった学童が少なからずいた、それと食糧事情からである。 本の中で家族との手紙のやりとりが紹介されている。疎開先でもらう手紙ほど子ども達にとってうれしいものはない。親にとっても同じことだが、心配の種でもあった。しかし親を心配させるようなことは、先生の検閲によりいっさい書けなかったようだ。 子ども達はホームシックにかかり、元気がなくそれをはげますため長い散歩に連れ出したなど引率の先生方の苦労も思いやられる。何事も自分たちで働かなくてはならず、先生や上級生は大変だったと思う。楽しいこともあったかも知れないけれど、それが思い出せないくらい辛いことばかりだったという。 親元をはなれて暮らすことでいいことは何もないのだった。 この写真集を見れば、体験者には封印していた懐かしさと切なさが込みあげてくるに違いない。
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