「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 098
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津村節子『茜色の戦記』
      新潮社、
1992

 

 

 

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著者の女学校時代の戦争体験が描かれている。難しい表現は使われていないので、読みやすい。私は埼玉福祉会の大活字本でこの本を読んだ。活字が大きいとこんなにも読みやすいのかと思った。

会津戊辰戦争に巻き込まれた一少女を描いた『流星雨』を書いた著者は、会津戊辰戦争が太平洋戦争に似ていると感じている。

出版社から自身の戦争体験を書いてはと促される。そのとき著者は自分の戦争体験はごく一般的なもので、とりたてて書くことはないような気がしたという。東京で何度か空襲に遭った体験や犠牲的な青春の生き方が、「ごく一般的な」とは、現代の若者には理解できないであろう。

女学生として、ごく一般的といえば、親しい友との学校生活、講演に来た海軍士官に胸をときめかしたり、ほのかな思いを寄せる上級生とのやりとりなどである。

特別なこととしては、たとえば毎月8日の大詔奉戴日におこなわれる学校行事のことが書かれている。この日には新宿の校舎から明治神宮まで徒歩で参拝する。しかし生理中の生徒は参拝せず、鳥居の脇で待っているなどは特異なことである。大詔奉戴日の参拝のほかにも、健民遠足という名称の遠足(後に行軍と改められた)がしばしば行われた。

 

衝撃的なこととしては、肉親との死別、兄の出征と遺骨での帰還があるが、意外に淡々と描かれている。

「兄が出征するとき、赤紙が来て翌日入隊だったのよ。床屋に行って髪を丸坊主にして、御近所の人たちに挨拶して、在郷軍人会が送別会をしてくれて、お酒飲んで、当日婦人会の人たちが割烹着にたすきをかけて、日の丸の旗振ってバンザイ、バンザイ、では頑張って来ます、って行っちゃった。家族で別れを惜しんだり、相談ごとをしたりする暇なんか与えずに、わーっと送り出しちゃう仕組みなのね。」

そして3ヶ月あまり経ってから兄の戦死の公報が入った。「骨壺を開けてみたら、兄の名前を書いた紙きれが一枚入っていただけ、“紙骨”と言うのだそうです。」

 

勤労動員についてはくわしく描かれている。戦局が次第に緊迫してきた昭和19年に著者も学徒勤労動員に出ている。

 

勤労動員先の北辰電機で製作にたずさわっていたのは、輪転羅針儀(ジャイロスコープ)で、これは特殊潜航艇に装備されていた。体積を小さくする必要から、当時の最高度の性能を誇っていた。しかし私たちは何を作っているのか知るはずもなかった。

 

さらに研究補助技術員養成所を経て小林理学研究所に勤務する。ほとんど仕事はなく、著者は何をやっているのかわからなかった。あとで確かめてみると、そこでは決戦兵器を作っていた。しかし、ジェラルミンの骨組みにベニヤ板を張り付けた小型飛行機の模型に見えた。模型ではなく実は本物であったと聞き驚く。やっていたのは、ロッシェル塩の防湿の研究で、それは水中聴音器に使っていた。

敵艦の高温部から発せられる赤外線を捕らえて、その方向に自動的に舵を取って進み、ねらった艦に命中させる。現在のロケット砲の原始的な模型といったものである。

 

茜色ってどんな色だろうか、辞書で調べてみると、暗い赤色とある。そうだ、あの夜間空襲で空をおおう暗い赤のことと理解できる。私も小学生のとき、忘れることのできない茜色の夜空を見たのである。


(2009.03.28) (2017.04.06)  森本正昭 記