「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 081
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ジョン・モリス 『ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記』
 小学館、
1997

翻訳:鈴木理恵子、解説:小田部雄次 原著:John MorrisTraveller from Tokyo

 

「モリス、1895年、英国生まれ。インド、中央アジア、ネパール、ブータンなどを遍歴、エベレスト登山隊にも参加している。日本の外務省の招聘により1938年来日。東京文理科大学、慶応大学、東京帝国大学で英語と英文学を教える。太平洋戦争勃発後も拘禁されず東京に留まる。1942年、交換船で帰国している。」

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本書はモリスの書いた原著の翻訳書である。そこにはイギリスの知識人モリスが見た太平洋戦争開戦前後の日本が描かれている。内容は第1部「日本でのくらし」、第2部「パールハーバー以後」の2部構成になっている。日本人の庶民の生活から、開戦後の日本社会の様子が描かれている。広範囲の事柄からなる。冷静な学者的観察ではなく、庶民や学生の側に立った見方であるため、ほんのりとした親しみをおぼえる。日本に滞在し、多くの日本人と接することによって、得られた知識であることが解る。

『日本語の特徴と難しさ』では、「日本語を習得するのはエベレスト登頂と同じくらい困難だが、会話だけならそれほどでもない。」「イギリス大使館職員にも時事的日本語を知っている者は誰一人いない。イギリス人の自己満足的島国根性の行き過ぎから、数々の外交交渉が失敗に終わっていた。」などと書かれている。

『ビアホールと酒場』では、開戦後ビアホールで酔っぱらっている人びとが急に増えたことを指摘しているほか、「ドイツ人は日本人には好かれていないことは確かである。彼らは非常に傲慢で、日本人に対する侮蔑の念を隠そうともしない。」とある。

ドゥーリトルの奇襲による東京初空襲のとき、モリスはそれを目撃し、「味方の国に爆撃されるというのは奇妙な体験であった。開戦から5ヶ月も経っているのに、日常生活はこうも普通であることが間違っているかのように思え、さらに空襲が続いて事態が悪化することを切に願った。」などと書かれている。モリスは帰国後、ドゥーリトル司令官に会い、この奇襲の戦果を確かめている。

モリスは左欄の略歴にあるように英語を教えていた一介の外国人教師である。よくある外人の見た日本見聞録だと思ってすらすらと読んでいくと、最後に小田部雄次氏の「解説」にぶち当たり、あっと驚かされる。モリス氏、「ただ者」ではないのである。

日本には親独的な軍部独裁に反対する親英米の「穏健派」が存在していた。駐英大使時代の吉田茂はその一人で、親日的で反ナチ的なイギリス人を日本の外務省に送り込もうと画策した。モリスはそれに抜擢されて日本に派遣されたという。

モリスはイギリス首相チェンバレンや吉田茂の意向を受けて対英米戦開始を回避することを切望し、開戦後に自分が見聞した日本を英米社会に伝えようとした。さらに対日戦略や日本の戦後政策への指針を示したなど、その影響力は大きいものがあった。

また米国内にあった天皇制廃止論と温存論に対しては、温存論を支持していた。「日本人は天皇と国家のために進んで命を投げ出す強力な戦闘機械であるとし、日本の攻撃力を軽んじる傾向をいましめている」。天皇制を廃止した場合、日本国民の支持を得ることが難しいことを知っていたからである。モリスは米国内でもイギリスの天皇制存続論者として知られ、アメリカの対日戦後政策に大きな影響を与えたのである。

交換船に乗り込む時点で日本の敗戦をいち早く予言し、戦後の対日政策として、非武装化、国際社会の復帰への道のりを描いていた。

 

この本の中で交換船に乗ることができるかどうか、日本に取り残されるのではないか。その時期のモリスの心情と行動が詳しく書かれている。入り交じる不安とあせり、同じイギリス人の動静、外国人ジャーナリストは逮捕拘束されているが、帰国が認められた。日本の友人たちとの情報交換など心情が読者に伝わってくる。本書で最もこころを動かされる個所である。


(2008.05.24) (2017.04.05)  森本正昭 記