「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 095
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大庭定男『戦中ロンドン日本語学校』
          中公新書、1988

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お堅い語学教育の本かと思って読んでいくと、次第に書かれている内容の魅力に惹きつけられる。登場する人物たちの個性的魅力や才能に対してである。

学徒を特訓して、戦場に送り込むのは日本の学徒動員も同じなのだが、英国の場合、まるで異なる展開に驚きを感じざるを得ない。

 

戦前の英国の日本語教育はないに等しいものであった。しかし第2次大戦に突入するや、英国の支配地域での日本軍のめざましい進撃に対抗するため、急きょ日本語を読み書き話す人材を養成する必要に迫られたのである。

ロンドン日本語学校の卒業生は648名、教育された若者たちは充分に期待に応え、輝かしい成果を上げることになる。

生徒たちは、偶然にも日本語特訓に参加したのであるが、日本について、深い興味を抱くことになり、戦後になって日本語学者、日本文化を研究する専門家、日英関係にとって重要な人物などとなって活躍するのである。

 

その教育は天才教育で、優秀な生徒を集め、泥縄式に始められた。その特訓の期間はわずか1年半くらいであった。

まず次のようなコースが設けられた。@政府給費生、これはシックスフォーマーという若年生、A軍隊の中から、大学出身で語学に強い者を選抜、できるだけ短期間に、捕虜の尋問ができる会話力を叩き込む、B翻訳官養成のため、文語体、軍隊用語を叩き込む、C軍総合コース 尋問も翻訳も可能

  多彩な教官たちが指導に当たった。最大25名いた。著者の紹介の仕方は事務的ではなく個性的な面を挙げているので興味深く読める。 

教室の空気はいたって和やかであり、また親日的でさえあったという。

教官は個性的な人物が多かったようだ。

 

簗田銓次 日本人でありながら帰国を拒み、英国に残り、この日本語教育に従事した。敵国に協力しているという心理的葛藤のせいか、複雑で、屈折した心境の人であったと評される。日本にいる両親や家族のことを考えたに違いない。

 

黄 彰輝 表意文字の一字一字が意味をもつことを教えた。また草書体を読むことを教えた。台湾出身であるが、東洋人の心、考え方、日本人の発想法をも教えた。

興味が持てるのは「桃太郎」「露営の歌」「東京音頭」などの歌い方とともに踊りも教えたことである。

前線より一刻も早く、日本語の分かる兵隊を送り込んでほしいと、矢のような催促がなされる中で、

ハア 踊り踊るなあら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ

と教室で教えていたとは面白い。生徒たちに大変人気があったという。

 

日本に詳しい英人の先生や日本文化に造詣が深い人びとからなる。フランク・ダニエルズ、おとめ・ダニエルズ、伊藤愛子は多才多芸で、簗田は動植物に詳しく、松川梅賢は日本文学について知識が深い。ピゴット少将は翻訳組のスーパーバイザーで英国きっての日本通、親日家で、戦後は日英関係の修復に努めた人物である。

 

生徒たちは語学能力があり、入学前にラテン語を勉強した者も多い。彼らは日本語がラテン語の文法に似ていることに気がついた(動詞が最後にくること、犬が、犬は、のような助詞の使い方が似ている)ので一層の興味をそそられた。

さらに日本文化に対する理解と親しみや尊敬を抱き、敵国日本ではなく、親日的ですらあったという。

戦地では捕虜の尋問、収集した日本語文書、作戦命令書、兵の日記や貯金通帳などから部隊の動向を察知し、英国軍の勝利に貢献した。日本兵に敗戦を知らせ、降伏させ、収容所に収容することや、占領下の政策推進など多用な業務に従事した。

多才な卒業生たちの戦後の活躍がこの本には多数掲載されている。卒業生は広く全世界に日本の真の姿を知らせ、敗戦国日本が国際社会に復帰するのに影の力となった。

 

英国版学徒出陣は日本のそれと比べると、実に実り多いものだったのではないだろうか。


(2008.12.23) (2017.04.09)  森本正昭 記