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恵隆之介
『敵兵を救助せよ!』

草思社、2006年

 

 

 

 

 

 

 

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オビに英国海軍士官がたたえた日本海軍の武士道とある。武士道精神を発揮した人物は駆逐艦「雷(イカズチ)」艦長の海軍中佐・工藤俊作である。

太平洋戦争が始まった当初の1943年2月27日から3月1日にかけて、ジャワ海、スラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊との間で戦闘が繰り広げられた。結果は日本艦隊の圧勝に終わるのだが、この海戦で撃沈された英巡洋艦「エクゼター」、英駆逐艦「エンカウンター」の乗組員は漂流を続けていた。そのときこの海域を航行していた雷に救助されたのは英国海軍の将兵で、422名にもおよんだ。この数は雷の乗組員220名の2倍にもおよぶ。救助に要した労力は大変なものである。敵潜水艦による攻撃が予想される危険な海域でこのような救助活動を行ったことは、極めて異例のことであり称賛に値する。そして疲労困憊している敵将兵に対し、適切な処置を行なったのは真似のできない大変立派な行為である。

この事実はそのとき救助された元英国海軍中尉サムエル・フォール卿によって明らかにされた。フォール卿は戦後は外交官として活躍した人物である。彼は戦後、工藤艦長の消息を捜し続けるのであるが、消息はなかなかつかめなかった。しかし1987年になって工藤は8年前に他界したことを知った。

その後、フォール卿は1996年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓しているが、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と書いている。さらに1998年になって英タイムズ紙に、救助された全員に友軍以上の丁重な処遇を施したと投稿文を載せている。さらにこの艦長への恩が忘れられず、来日して墓参と家族への感謝を述べようとするのだが、消息はヨヨとしてわからず、それすらも果たせなかった。著者恵氏は工藤の墓地と家族を捜す役割を依頼されることになった。

このような崇高な行為が日本でまったく知られずにいたこと自体不思議である。しかし恵氏は「ここに帝国海軍の崇高な精神を発見した。彼らは、国家のために職務を忠実に果たし、己を語らず、静かにこの世を去っていったのだった。この先人の功績を発掘し、後世に伝え残すことが、後輩の責務である」と述べている。この本は工藤俊作の生い立ち、米沢興譲舘中学から、海軍兵学校の教育、ワシントン海軍軍縮会議、海軍部内の分裂や昭和史前期の話、日・米英戦争の開戦など詳しい記述が延々と続く。スラバヤ沖海戦から救出劇がクライマックスである。

このような記述が延々と続く理由は、なぜ工藤艦長が武士道精神を発揮するに到ったのかという土壌を著者恵氏は明らかにしたかったためと思う。

(2006/08/28)

飯尾憲士 
『艦と人−海軍造船官八百名の死闘』
 
集英社、1983年

 

水中高速潜水艦 伊201型

 

 

 

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海戦の主人公は艦である。その艦をあやつって作戦を実行する者―用兵者―ばかりが注目を浴びる。山本五十六、南雲忠一や山口多聞などの提督や司令長官がその代表であろう。しかし艦の性能が海戦の勝敗を決定する以上は造船技術を支えている造船官に注目しなくてはならない。ワシントン軍縮条約の建艦制限下にあって、トン数を制限された艦艇に、用兵者は過酷な重装備を要求した。造船官は黙々とその要求に応えていく。

著者・飯尾氏は造船官と用兵者との絶え間ない相克のドラマを描こうと試みたのが本著である。

副題に“海軍造船官八百名の死闘”とあるが、内容は海軍技術中将・福田烈(ただし)の伝記といってもよいくらい、その中心人物が描かれている。当時、海軍の技術士官は用兵者の下に置かれていたので、その地位は一段低く中将が最高位であった。

福田烈は世間では知られていないが、艦艇の建造に関して無類の貢献をしたことで、知る人ぞ知るの権威者である。従来のリベット工法を電気溶接工法に変えたことやブロック建造による著しい工期短縮に貢献した。性格は短気でありながら部下思い、後輩からは慕われた。用兵者とは対等に活きたという。

そして酒豪家としても知られている。その逸話は数多くあるが、日英交換見学(世界の注目を浴びた重巡「古鷹」と英国の誇る「エンタープライズ」)のとき、日本側の見学者は若き福田烈造船大尉であった。英側はまず彼を艦内の宴席に招き、意図するかのように次々と多種類の酒を飲ませるが、福田は“しれっ”とした表情でいくらでも飲み続ける。その足は乱れることなく、艦内を歩む。その情景が目に浮かぶようで面白く書かれている。

電気溶接工法による造船は、当時は絵空事ともいえる技法で、世界では英国の他2,3の国が研究していただけであった。大正9年になって、日本最初の全溶接船・諏訪丸が三菱長崎造船所で完成している。なぜ電気溶接かというと、二つの鋼板の端を重ね合わせて、リベットを打ってつなぐ工法よりも、重ね合わさないでつき合わせて溶接すると、艦の重量を節減でき排水量の問題、重装備の問題を解決できる。またブロック建造ができて工期を著しく短縮できるのだった。戦闘で破壊された艦艇を再生するためにも必要なことであった。用兵者たちは軍縮条約締結により、量の不足を個艦の威力増強で補おうとした。造船官たちはその要求に必死で応えていくのである。

ところが太平洋戦争の勝敗を決定したのは、巨砲を誇る戦艦ではなかった。決め手は航空機と魚雷艇であった。さらに海中からの攻撃をしかける潜水艦であった。日本は戦争に負けたが、造船の技術は世界に誇れるものであったという。敗戦直後、福田は「日本は負けたが建艦技術は微塵も負けていないよ」と技術者たちにいったという。戦後になってこの造船技術は巨大タンカーの建設に役立ち、日本の経済復興に大きく貢献することのなるのである。

(2006/09/22)

上田浩二、荒井 訓 『戦時下 日本のドイツ人たち』集英社新書、2003

 

 

 

 

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戦時下の日本人にとって、ドイツは三国同盟の相手国であり最も頼りになる国であった。唯一、政府公認の白人の国でもあり、ヨーロッパ戦線における快進撃は頼もしい限りであった。明治以来軍事、医学、薬学、音楽などで学ぶことの多い国であったから、ドイツ人は尊敬に値すると思われてきた。

戦時下に日本に滞在していたドイツ人は3000名に及んだという。それらの人々は日本でどのような暮らしをしていたのか。彼らの見た日本はどのようなものであったかは興味の持てる問題である。著者らは戦争体験のない世代であるが、この問題をインタビューによって明らかにし本著をまとめあげたものである。

日本にいたドイツ人は貿易商、教師、留学生や兵士のほかナチスの支配から逃れてきたユダヤ人などであったが日本人は差別をしないでつき合ってきたようだ。少年たちの胸をときめかせたのはヒットラー・ユーゲントが来日したときであった。

ドイツ人に対する日本人の警戒感を高めた最大の事件はゾルゲのスパイ事件であろう。ゾルゲはフランクフルト新聞の通信員という身分で日本に来ていたが、後に世界史の行方を変えるほどの情報をソ連に対して提供していたことが判明し処刑された。

三国同盟の3ヵ国のうち、イタリアは早々と降伏した。ドイツは1945年になって次々と自国の主要都市を失っていった。敗戦は目の前に来ていた。ベルリン攻防戦で追いつめられ、ついに同年5月7日ドイツは無条件降伏することになった。三国同盟では同盟国相互の了承なくしては戦闘を終結しないという条項があったのだが、ドイツ政府は日本政府となんら協議することなく降伏したのである。これ以降、連合国は戦力を対日戦に投入することになった。日本だけが戦争を継続していく。捕虜になるより死を選べと教えられていた日本人には降伏という考えはなかったので、ドイツに対する失望から、在日ドイツ人に対する態度は厳しいものになっていった。

ドイツ人から見ると、「家財いっさいを失っても黙々と耐える日本人、義務のためには身の危険も顧みない勇敢な日本人、烈しい空襲下にあってもなお勝利を信じて疑わない日本人の態度に、在日ドイツ人は新鮮なショックを受けたようだった。」

しかし総じていうと、日本にいたドイツ人は恵まれた生活をしていた。日本政府が食料を確保して配給していたほか、住宅を斡旋したりもした。米軍の空襲下にあっては軽井沢、箱根、六甲などに避難していた。ドイツが降伏後も収容所に入れられることもなく、以前と変わらない生活をしていたという。日本が無条件降伏した後、進駐してきた米軍もドイツ人に対して寛容であったというが、やがて本国に強制送還されたものと残留できた者とに分かれたという。(2006.11.11)

 

岩瀬 彰 『「月給百円」サラリーマン』
講談社現代新書、2006

 

 

 

 

 

 

 

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副題に「戦前日本の「平和」な生活」とある。描かれているのは戦前日本のふつうの人の生活感覚である。戦前社会というとその時代を知らない者にとっては、暗いイメージで塗り込められている。天皇機関説、柳条湖事件、不景気、エログロ・ナンセンス、特別高等警察、軍国主義などを思いつく。しかし一般大衆にとってはいまと同様、生活に追われた毎日であり、愛国よりも月給、思想よりも就職に関心が向いていた。

戦後世代の日本人にとって、「戦前の日本」とは二度といけない外国のようなものだと著者岩瀬氏はいう。それで庶民の生活感覚をお金の面から明らかにしようと試みている。統計資料よりも、過去のいろんな雑誌記事を細かく読み込んでデータを拾うといった方法なので面白さに満ちている。

物の値段を現在と比較する一応の基準であるが、現在の物価は当時の約2000倍で当てはまる物が多い。2004年の東京都区部物価指数が戦前基準(昭和9〜11年平均)の1800倍、食料や被服は2000倍前後であるという。もりそばやコーヒー1杯は10銭、現在200円くらいとなる。しかし、月給と教育費は5000倍くらいという。月給百円とは50万円となる。

庶民の生活はいたって単純で、家は借家だから住宅ローンはない。中等教育以上を受けるのは限られた世帯なので、教育費は少ない。今日の家電製品といった物は家の中にはない。薪や石炭で炊事をし風呂を沸かしていた。車の維持費や(携帯)電話もなかった。

岩瀬氏は百円をサラリーマンの基準に置いている。それはなかなか得難い金額であったという。そもそもサラリーマンがエリートであった時代である。現代のように誰も彼もサラリーマンで、現代の奴隷階級と思うくらいの実態とはかけ離れていることを知らなくてはならない。

このサイトの目的は「庶民からみた戦争」をテーマにしているので、特に軍人について書かれている見出し(貧乏サラリーマンとしての軍人)に注目した。人々は軍人に対しては敬意を払い、彼らは高い誇りを持っていたようであるが、将校も月給をもらう普通のサラリーマンであった。そして「貧乏少尉、やり繰り中尉、やっとこ大尉」という言い方があったという。大卒の初任給が70円前後の時代に20代後半から30歳くらいの軍人(中尉)で85円という事例を挙げている。裏長屋に住む将校などが書かれていて当時の軍人の尊大ぶりを少しでも知っている者にとってはがっかりする。

私(筆者)の父は軍人であった。それでいま当時の古い写真を見てみると、どうも著者岩瀬氏の記述は違っているのではないかと思える。母に聞いても軍人の生活は大変豊かであったという。何が違うのか。それは岩瀬氏は本俸だけを指摘しているからではないか。私の父は陸軍の航空兵であった。飛行機に何時間乗ったかという飛行時間が危険加俸として加算されていた。海軍の航空隊だとさらに加算率が高かったそうである。さらに戦時に突入すると戦時加算がありこの両方で本給の倍を貰っていたらしい。しかし当時の飛行機は危険度が高いのか、事故による火傷を負い、やがて熾烈な戦場に出て行くのである。もはや給料では換算できない世界に飛び込んで行かざるを得なかったのである。

(2006.11.30)

阿川弘之 『雲の墓標』
戦争文学全集4、毎日新聞社、1955

 

 

 

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主人公の名前は吉野次郎。海軍予備学生として、大竹海兵団に入隊した昭和18年12月12日から遺書となる昭和20年7月9日までの日記として描かれている。私は著者阿川氏の実体験そのものとして読んでいったのだが、戦後に書かれたものであることを知ると、いささか記述そのものへの疑念が沸くことをどうしようもなかった。先に竹内浩三の軍隊日記を読んだせいもある。

おそらく戦争中は禁じられて書けなかったことを、記憶を思い起こして書き込んだのであろう。決して戦後の価値観の反転に同調する筆使いはない。そのため、読者に主人公の心情が転移し、読者は軍隊生活や特攻隊員の心情の中に引き込まれていく。私はなぜか軍隊日記に異常に惹かれる。

入隊後は急速に海軍の鋳型にはめられていく。配属は土浦海軍航空隊である。飛行科専修予備学生の命課式のあった日から、死に正対しなければならない意識が沸く。そして飛行訓練に明け暮れる。

どこの海軍部隊でも、海兵出身者と予備学生(大学を繰り上げ卒業させられて兵役に就いた者)との軋轢は強く、予備学生は階級という壁以上に反抗できない仕組みができていたようだ。そのため予備学生は軍紀の維持とか、後輩の補導のためでなく修正と称する殴打を繰り返される。ある時、兵学校出の偵察学生と予備学生との相撲大会があり、予備学生側には学生相撲の選手がそろっていたため、勝利を収める。その状況が胸のすく思いとして描かれている。

やがてガソリンの欠乏故に、飛行作業の訓練すらできず、再開の見込みがたたない事態に追い込まれている。アルコール燃料が代替燃料として使われるようになって再開する。

劣勢の中、特攻作戦が考え出され特攻隊が編成される。隊員たちは肉弾攻撃でもなんでもやる決心で、死ぬ覚悟はとっくに出来ている筈なのに、「これで俺も死ぬな」と思う。そう思うと急に身体中から何かをもぎ取って行かれるような、ガタンとしたものを感じたと書かれている。

特攻隊で敵艦に体当たりして死ぬときは、痛いだろうか、痛くないだろうかという議論やうまく回避する方法を思案したりする。しかし日本軍の劣勢、後退は昭和20年に入ると急速に進行し、もはや特攻作戦しか打つ手はなくなる。それも一機一艦の戦果を挙げたのは初期の頃だけで虚しい犠牲だけが累積されていく。この滅私奉公の精神が後の世にどのように描かれ、どのように評価されるのか特攻隊員たちは知らないままに、「上官ノ命ヲ朕ガ命ト心得」て出撃する。

主人公吉野もついに出撃、肉親や親友にあてた手紙が遺書として残される。「雲こそ吾が墓標/落暉よ碑銘をかざれ」とある。


(2006.12.29)

柴田芳見『少年志願兵』叢文社、1983

 

 

 

 

 

 

 

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主人公・俊吉は東北の片田舎の出身、5人兄弟の四男である。かつて純粋に国を想い、民族を信じ、死を覚悟して戦場に馳せ参じた少年志願兵の心情を描いた作品である。奥付けの著者紹介によると、'75に遡って発令のあった叙勲と軍人恩給を拒否している。小説の中では気づかなかったが、相当な気骨のある人物であるに違いない。

15歳で東京陸軍航空学校、航空整備学校に学び、南方に派遣される。ジャワ島バンドンで敗戦。帰還することができたにも拘わらず、インドネシア独立戦争の指導者として参戦。その後帰還を果たしている。

物語は学校、戦場、敗戦という章立てで描かれている。その間、四六判472ページにおよぶ長編である。印象的なことを挙げると少年の頃、あの2.26事件が起こり少年の暮らしていた村にも号外が配布される。「青年将校 閣僚を襲い、内府、首相、教育総監を射殺」これを読んだ農民達は、「とうとう…、やったなあ」おれたち貧しいものの味方がついにやった!と感激する。青年将校たちも貧農の出身が多かったと聞いていたので、その情景が目に浮かぶようだ。

航空学校ではきまじめな生徒振りを発揮する。私が国民学校に通っていた当時も、教室の壁には「忠義」「孝行」などという標語が貼ってあったことを思い出す。忠は国に対して身を捧げること、孝は親に孝行することであるが、この二つは矛盾する。国に忠節を誓うと、若くして死ななければならない、すると親に孝行することができない。それで国は「忠孝一体」ということを言い出し、忠義が孝行よりも上位にあるのだという。このことを俊吉は上官に質問に行く。意欲的な少年兵であったことが判る。

その後、物語は延々と続く。戦場の光景、敗戦のこと、ジャワ島の若い娘に恋心を抱き、インドネシア独立軍に参加することなどと続く。しかし最も私にとって感動的な記述は内地に帰還する、この物語の最後の数ページである。まるでこの場面を描くために延々とそれ以前の体験が描かれているのではないかとさえ思った。

‘俊吉たちは荷を背負い、「復員列車」に乗り込む。この列車の発車が軍隊の終わりだった。7年にも及んだ巨大な組織から解かれた者の歓喜が湧き、たとえ、列車の窓が破れ、また走る故国の土が戦果に荒れ果てていても、それらに対して深く哀しむことさえしなかった。その彼に一つだけ奇妙なこだわりがあった。そこには何一つ区切りがなく、俊吉は公的から私的な身へと移っていったことだ。’原爆の落ちた広島を見る。ホームの隅にボロを着た少年が無表情に立っている。そして復員列車にお構いなしに乗り込んでくる食料を売りに行く集団に、かつての日本人にない荒れ果てた内地の国情を見知らぬ国のように感じる。かと思うと、引き揚げ者援護の学生同盟の暖かいもてなしに感動する。

いよいよ故郷の部落に帰ってくるくだりが良い。顔なじみの老婆に出合い、俊吉の兄弟たちは未帰還であることを知る。そして懐かしい我が家の少し崩れた茅葺き屋根と風呂の煙突が見える。草取りをしている母の姿を見つける。何とも感動的な場面で物語は終わっている。

(2007.2.6)

日高六郎 『戦争のなかで考えたこと』ある家族の物語 

筑摩書房、2005

 

 

 

 

 

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「あとがき」に‘なぜ、いまさらのように「戦争のなかで考えたこと」を書くのか。それはあの戦争が忘れられないからである。そして、戦争を忘れない世代はまもなくいなくなるからである’、と書かれている。さらに、‘今の日本のなかで感じる空気が、満州事変の前と似ている。その総仕上げが憲法「改正」や教育基本法「改正」である’という。この原稿を書いている時点で、すでに教育基本法は改正されてしまったし、憲法改正もスケジュールに乗るところまで来てしまった。過去の体験に学ぶものは何もないかのように、国会では軽々しい議論しか行われていない。そう感じている方々にはこの本を熟読して欲しいし、感じていない人々にも注目して欲しい著書である。

‘戦後60年のいま、日本は不毛で危険な方向に向かっている。近隣アジア諸国とその民衆の反感の目に包囲されている。これは、直接には15年戦争に対する日本政府の歴史認識が、戦前と連続しているからである。’

著者は中国・山東省の青島市に生まれ、中学までをここで過ごしている。父親の影響で反戦的であり、日本軍の武力行使に反対している。弟・八郎は家族だけで読む家庭新聞『暁』を小学生の時に発刊しているの(月2〜3回、手書き12ページ、発行部数1部)だが、父は中国人老車夫の死を悼む短歌や反国策的短歌を寄稿している。これは83号まで4年半続いたというのは驚きであり、それほど熱中する会話がその中で交わされていたということであろう。

太平洋を舞台とする日米戦争は4年で終結するのだが、それ以前に日中戦争が10年も続いていたわけで、日本は中国を屈服できないまま、アメリカと戦うことになった。その連続性の上で考えなければならない。

青島は世界の列強から狙われた軍港である。日清戦争後、三国干渉(露仏独)によってドイツが膠州湾一帯を租借し軍港を築いた。第1次大戦の時、日本軍はドイツ要塞を陥落させ占領下においた。日高氏が生活をしていたのはそのあとである。中国人の視線は親独排日であったという。さらに太平洋戦争後は米国西太平洋艦隊が司令部を置き、その後、国民政府、共産党政府と支配者が変化した。日高氏のこの地で生活した体験が先の戦争に対する深い読みを醸成されたものと考えられる。なぜ遠く離れた欧州の国々が東アジアの片隅のこの地域に異常な関心を持っていたのかについても、この本は判りやすく解説している。

著者は終戦を目前にした45年7月頃、『国策転換に関する所見』を嘱託として勤務した海軍技術研究所に提出している。その内容たるや、国の指導者を糾弾する内容であり、身に危険の及ぶ内容であった。敗戦後にとるべき諸政策を述べていることにも驚かされる。自由な意見を述べることがまったくできない時代には大変な勇敢な行為であったというべきである。その後、海軍を解雇されているが、やがて敗戦となり、そこに述べられた諸政策が占領軍政府GHQ指令として実行されているのである。

(2007.2.8)

りぼん・ぷろじぇくと 
『戦争のつくりかた』

   マガジンハウス、
2004

 

 

 

 

 

 

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平和な社会をつくろうと内外で活動している人びとが、有事法案を読み込む勉強会を続けている中で、この絵本は期せずして生まれたという。絵本といっているが、大人向け、戦争が起こる理由をさぐることや危険な法案の成立を阻止しようという活動の中で生まれた。文章は少なく、短文でありながら、その背後におびただしい議論とメールのやりとりがあったであろうことが推測される。

敗戦後、もう二度と戦争はしないと身にしみて決断したはずなのに、いつの間にか世界の3〜5位の強大な軍事力を持ち、まさか海外に自衛のための兵力を派遣しないと思っていたのにもかかわらず、そのまさかは「国際貢献」の美名を使うことによって簡単に破られてしまった。いま憲法改正もすぐ目先のスケジュールに組み込まれるにいたった。

なぜそうなるのかをこの絵本は明らかにしている。本のタイトルは『戦争のつくりかた』である。書店の棚に目立たなく置かれていたが、これは一体何?どういう意味?という疑問から私はこの本を手に取った。これを読む人が日本人だけではなく、外国人にも読んでもらいたいため、英文でも表現されている。
 英文タイトルは『
What Happens Before War?』とある。この方が判りやすい。

‘わたしたちの国を守るだけだった自衛隊が、武器を持ってよその国にでかけるようになります。
 世界の平和を守るため、戦争で困っている人びとを助けるため、と言って。
 せめられそうだと思ったら、先にこっちからせめる。とも言うようになります。’

私もある発見をしました。「戦争をつくっている」人たちの唯一の攻め手はこうです。
「もし北朝鮮が核弾頭のついたミサイルを撃ち込んできたらどうする?」

答えがあるわけはありません。ミサイルを撃ってこないような人と人の関係、外交努力がまず先ではありませんか。

ところでこの本、絵本にしては見開きが悪く、バタンと閉じてしまう安づくり(私はバタン本と呼んでいる)であることが残念である。

(2007.2.17)

小寺幸生編『戦時の日常−ある裁判官夫人の日記』、博文館新社、2005

 

 

 

 

 

 

 

 

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著者は坂本たね。明治33年生まれの裁判官夫人で、昭和4年から昭和56年までの52年間にわたって日記を書き残している。冊数で51冊におよぶ。日記のほかに、家計簿も残している。几帳面な方なのであろう。この方の甥に当たる小寺幸生氏が昭和4年から昭和26年までの日記を抜粋、編集してこの本を出版したものである。裁判官は高級公務員であるから、生活に追われることもないであろうと思って読んでいくと、生活は逼迫していて、戦時下の主婦としての、また裁判官夫人としてのやりくりの苦労が滲み出ている。このサイトは庶民から見た戦時の体験を拾い集めているので、この本は貴重な資料であることは間違いない。

夫人にとっていいことが一つある。それはどうやら裁判官は兵役を免除されていたようで、夫の兵役徴用に怯えるといった記述はまったくないことである。

内容であるが、主婦がどのようなことに関心を抱いていたかということがよく分かる。政治、とくに次々と首相が替わる時期にあって組閣人事についてまで詳しく書かれているほか、敗戦までは女性は選挙権がないにも拘わらず、勝利して欲しい政党、候補者名が書かれていて政治に対する関心が高いことに気がつく。大本営発表の戦勝祝賀記念報道に心はずませている様子などでは、それが偽りの報道であることを知っている立場からは胸傷むものがある。

戦況が悪化してくると、銃後の守りは隣組(隣保班)が町内会の下部組織として全国規模で組織される。組長を選び、常会が開かれ、回覧板を回し、食料の配布から防空活動までを行う。それは物資の不足とその配給制度と深い関係を持っている。配給品は隣組単位で配給される。それを隣組組長が取り仕切る。それだけではなく軍事費高騰を賄う国債や必勝貯金を毎月のように分担しなくてはならない。さらに弾丸切手というものがありこれを買わなくてはならない。各戸の均等割ではなく、払える家は毎月高額に買わなくてはならない。組長の支配力が食料の配給との関連で大変なものであったろうことが推測される。

主人小寺徹章氏は転任が多いのであるが、物不足のひどい時期に高知に転任する。海に近いこの地であれば食料として魚が豊富であったろうと想像できる。ところが現実は漁師が兵役に駆り立てられ、漁船も徴用されて漁獲が衰退していたため高知では魚は食卓に上らなかったようである。

この日記、肝心の終戦をはさんだ期間(昭和19年11月から昭和21年11月)は空襲ほかの事情で書けなかったのか、中断しているのは残念である。戦後はインフレによる物価の著しい高騰の有様を日記に見ることができる。それでも裁判官の家庭であるから、恵まれていたのではないか。そうでない庶民の家庭ではどのような生活であったのか、想像を絶する厳しさではなかったかと想像される。

(2007.3.5)

澤地久枝『自決 こころの法廷』
日本放送協会、
2001

 

 

 

 

 

 

 

 

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戦後の歴史は自決に始まったといってもよい。昭和20年の8月15日以降のある時期、軍部の要職にあった軍人たちの自決のニュースがあいついだ。

阿南大将の遺言、「一死 以て大罪を謝し奉る」
敗戦にいたった「大罪」を、死をもって天皇に謝罪するということである。大西中将は特攻攻撃の発案者とされ、数多くの若者を死なせた責任をとったのだろうか。国民はそれを当然視した。責任以外にも、国の将来への絶望や閉塞的状況などの原因もあろう。額田担編『世紀の自決』には、568人の自決が記録されているが、澤地氏はこれよりも記載漏れの方が多いのではないかと述べている。

 いずれにしろ、おそろしく重苦しい問題である。その重苦しさを著者は一人の陸軍軍人を主人公にして自決に至る過程を追っている。沖縄出身の親泊朝省(おやどまりちょうせい)大佐である。著者が特に注目したのは子供二人を道連れにした自決であることである。

親泊は陸士37期、騎兵科の首席、同期には2.26事件に連座し、銃殺刑になった二人と禁固刑になった二人がいる。さらに義兄に菅波三郎という名前がしばしば出てくる。どこかで聞いた名前と思っていると、2.26事件で禁錮5年の刑に服したの生き残りである。

‘親泊朝省を知る人はみな「よい人だった」と言う。「やさしくて神経のこまやかな人」、顔を見ただけでにこにこしたくなるような、「あたたかい人」と言う。一族や軍人仲間の敬愛をあつめ、きわめて人間性ゆたかな情の深い人であった。’

親泊はあの悲劇の島ガダルカナル島から生還しているが、兵力の3分の2を失っている。その後は昭和19年、陸軍省報道部・陸軍中佐親泊朝省の活躍が始まる。決戦体制にとって、女性たちの自覚が重要であると考え、女性向けに多くの文章を書き雑誌で発表している。

大西洋憲章からポツダム宣言、これを受け入れるにいたる日本の指導者の姿が延々と書き込まれている。阿南大将を代表とする主戦派軍人たちは、「本土決戦」にそなえて兵力を温存し、沖縄を見殺しにした。最後の一戦によって日本に主導権のある戦争終結に進みたいと考えていたようだ。親泊大佐もこの考え方であった。
 しかしこの考えに国民はいない。敗戦を決断するために、つかむべき機会を失い、誘いに反応できない鈍さ、視野窮策、に陥っていたのだ。

‘「責任」について、親泊朝省がみずから選びとった答えは「死」だった。しかし、彼は死よりも辛い生があることへの理解を書きのこしている。’

親泊の家族4人の遺体は、整然と並び、枕元に雛人形と五月の武者人形が飾ってあった。子供は9歳と7歳。親の手で人生を終わらされる子たち、子供を後に残すのは忍びないという思いが親にはあったのであろう。これはなんと筆者の家族構成、子供の終戦時年齢に一致する。

この様な時代はもう来て欲しくない。

(2007.03.16)