昭和6年 1931年            戻る

昭和5年末に登場した鈴木一郎原作の紙芝居。
脚色と画は加太こうじ。恐るべき破壊力の原子光線をめぐる物語。
「のらくろ(昭和7年〜)」とともに人気キャラクターとなった。

 

<時代>

軍の謀略と暴走で始まった15年戦争。
満州事変勃発、それでも真相を知らされていなかった国民は満州進出を経済不況脱却の好機と捉えていた。
満州派遣の兵士を歓喜の声で見送った。銃弾・軍刀と血のテロやクーデターが頻発する時代ともなった。

<政治>

2月3日、幣原首相代理がロンドン軍縮問題の国会答弁で、「御批准を得ている」と天皇に責任を転嫁したとする失言があり、
乱闘国会となり浜口内閣は退陣に追い込まれた。

3月20日、三月事件、橋本欣五郎中佐など桜会の将校と大川周明らが宇垣一成内閣樹立を画策しクーデターを企てたが未遂に終わる。
十月事件でも軍部のクーデター未遂。

4月13日、浜口内閣総辞職、4月14日、第2次若槻内閣発足。

6月1日、官吏の俸給減となる。最高2割。

8月 労働争議が急増。1〜6月末で1079件となる。これは前年上半期の48%増。

12月11日、若槻内閣総辞職。12月13日、犬養毅内閣発足。

<軍事>

6月27日、中村震太郎大尉は興安嶺方面の情報収集活動中、中国兵に射殺された。この事件が満州事変の導火線となったとされている。

9月18日、関東軍参謀らの謀略により、満鉄本線の王官屯と柳条湖間の線路が爆破され、満州事変が始まる。
これは石原完爾参謀が立案していた関東軍満蒙領有計画を実行に移したものであった。
本庄繁関東軍司令官は中国軍の謀略であるとして総攻撃を命令。奉天城を始め満鉄沿線の主要都市を占拠する。

政府の不拡大方針は破られ、軍は暴走する。9月21日、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で朝鮮軍の満州越境を開始。
10月8日、錦州を爆撃。11月8日、天津で日中両軍衝突、11月10日溥儀天津を脱出(土肥原大佐の謀略による)。
11月18日馬占山軍を破りチチハルを占領。昭和7年1月3日、錦州占領で軍の目的を達成したとされる。

<経済>

9月21日、イギリスは金本位制を離脱。 12月21日、日本も金輸出再禁止(金本位制からの離脱)、管理通貨制に移行した。

<社会>

東北地方冷害による飢饉で、女子の人身売買が横行した。

一方で三井、住友、岩崎の財閥は金輸出再禁止を見越してドルの思惑買いをし巨利を得た。
そのため物価の高騰をきたしたことを社会民衆党は追求し、利益を凶作飢饉の救済に充てるべしと主張した。

田河水泡「のらくろ二等卒」(少年倶楽部)1月に連載を開始し大人気を博す。

 

昭和7年 1932年             戻る

<時代>

国際世論の非難の中で満州国建国宣言。軍部はその非難の眼をかわすために西欧諸国が権益を持っている上海に戦禍を飛び火させる。
上海事件はまたしても軍の謀略であった。そして国内では海軍青年将校による犬養首相暗殺事件が起こり政党政治は無視されていく。

<政治>

2月9日、井上準之助前蔵相が狙撃されて死亡。血盟団事件。

3月1日、満州国建国宣言。首都は長春市、これを新京市と改名。ラストエンペラーこと溥儀が執政に就任。

5月15日、海軍青年将校三上卓中尉ら5人が首相官邸などを襲い「話せば分かる」と言いきかせる犬養首相を「問答無用」と射殺した。
同時刻に、牧野伸顕内大臣邸、政友会本部も襲撃された。これは5・15事件と呼ばれている。

5月16日、犬養内閣総辞職。

5月26日、斉藤実内閣発足。非常時であることから二大政党、貴族院、軍、官僚、財界の諸勢力を組み込んだ挙国一致内閣といわれた。

<軍事>

1月18日、上海事変。日本山妙法寺僧侶らが上海で托鉢中、中国人数十人に襲われ、2人死亡、3人重傷。
その後日中両国に紛争がエスカレートし、日本は2個師団を上海に派遣する事件となった。
冒頭の事件は陸軍特務機関の田中隆吉少佐が東洋のマタハリこと川島芳子に資金を与え、この事件を企てたと後に判明した。
川島芳子は清朝の王女ながら日本人川島浪速の養女となり、男装して大陸と日本の陰の舞台で活躍した。
戦後、売国奴として中国で銃殺刑になった。

東洋のマタハリこと川島芳子(右から2人目)

              (毎日新聞社)

<世界>

1月14日、国際連盟理事会は満州問題調査のため、リットン調査団派遣を決定、2月29日東京到着。
10月1日、日本政府に報告書を通達。
日本の謀略なのか、自衛戦争であるのかの詳細な調査が行われた。
その報告書は日本の主張の全否定ではなかったが日本の満州からの撤退を要求するものであった。

7月31日、ヒットラー率いるナチスがドイツ総選挙で第1党となる。

<スポーツ>

第10回ロサンゼルス・オリンピック開催、
南部忠平(三段跳び・世界新)、西竹市(馬術大障害)、北村久寿雄(水泳)らが7つの金メダルをとるなど大活躍。

<社会>

5月9日、慶大生と大富豪の娘が大磯駅近くの山で心中。天国に結ぶ恋と話題になった。
この山は後に坂田山と名付けられ、坂田山心中といわれた。

12月16日、日本橋白木屋デパートで火災があり、煙に包まれた窓から飛び降りるものもあり、死者14名、重軽傷百数十人を出した。
以後女性は和服でもズロース着用が普及した。

 

昭和8年 1933年             戻る

初のカラー国定小学校国語教科書。
サイタサイタサクラガサイタから始まるので「サクラ読本」と呼ばれた。忠君愛国を強調。
右は「オトウサンイッテマイリマス。オカアサンイッテマイリマス」と
学校に出かけるときに子供が挨拶をしている。

<政治>

2月24日、国際連盟総会でリットン報告書に基づく対日勧告案が42対1で可決されると松岡代表は席を蹴って退場。
3月27日、日本、国際連盟脱退を通告。国際的に孤立化の道を歩むことに。

<軍事>

1月3日、日本軍、山海関を占領。3月1日、熱河省に進出。5月やっと停戦となる。

<経済>

高橋蔵相は農民救済を目的とする時局匡済費を登場させた。
また拡大する軍事費を賄うため増税ではなく日銀引受制度による公債を発行する積極財政で対応した。

<社会>

4月22日、滝川事件。文部大臣鳩山一郎が京大教授滝川幸辰を赤化思想の対象者として辞職を要求した。
5月26日、文官分限令により同教授を休職処分とした。これに対し同学部の教職者全員が抗議の辞表を提出。
他の大学や学生にも同調する動きへと騒動が発展した。

ヨーヨーの大流行。当時の日本の人口は約6800万人のところ6000万個が生産されたという。
小学生からモダンガールまでファッション化した。

情死と自殺ブーム

2月12日、実践女学校専門部の女学生が大島三原山の噴火口に投身した。
その新聞報道に刺激されてか、この年だけで男804人、女140人が同じく三原山への投身自殺をした。
若者はなぜあいついで死のうとしたのか。深刻化する不況、農村部での生活苦、結核による死への恐怖、
大学を出たけれど職に就けない状況から将来への展望がない。
また国は満州事変を契機として国際的に孤立を深めたこと、軍部の強硬路線に反対する勢力への弾圧による
若者の無力感が広がっていたものと思われる。

 若者だけではなく、日本全体で明治33年の死亡統計開始以来、最高の自殺率を記録した。

「東京音頭」西条八十作詞、中山晋平作曲、歌小唄勝太郎・三島一声、流行歌となる。この歌の盆踊りも熱狂的に流行した。

 

昭和9年 1934年             戻る

<時代>

東北地方の大凶作、室戸台風の被害の社会的影響が大きい中で、軍部は国内の機構改革を標榜する資料を公表し政治介入が進行した。
やがてカーキ色の国防体制が日本を覆い尽くすことになる。

<政治>

7月3日、帝人事件により斉藤内閣総辞職。7月8日、岡田啓介内閣発足。

<軍事>

10月1日、陸軍パンフレット(略称 陸パン)発表される。陸軍内は統制派と皇道派に分かれて激しい派閥争いを演じていた。
皇道派は日本の貧しい窮状を救うには、天皇をかつぎ、その大権の発動によって軍部が政治・経済の大改造に踏み切るという考えである。
基にあるのは北一輝の『日本改造法案大綱』である。統制派は総力戦に見合う強固な軍事体制国家にする目的で、
陸軍パンフレットを発表したのである。「戦いは創造の父、文化の母である」という文で始まり、
「国防は国家生成発展の基本的活力の作用なり」とし、「必勝の信念と国家主義精神」を養うため、
国民が等しく利己的個人主義的経済観念より脱却し、全体的経済観念に覚醒することを説いている。
前編にみなぎるのは濃厚な好戦的軍国主義的思想である。
それを粉飾するために厚化粧の美文が書かれている(半藤一利、昭和史、平凡社より)。
これに対し民政党、政友会、新聞社、経済界ともに非難が相継いだ。
しかしやがて統制派が主導権を掌握し政治に介入することになるのである。国防は流行語となった。

<経済>

11月1日、満州の大連・新京間に「あじあ号」が運転開始。12月1日、丹那トンネル(7804m)が開通。

<スポーツ>

11月2日、ベーブルースを主将とする米プロ野球選抜チームが来日。
対戦したのは全日本チームで全18試合全敗であり格差を見せつけられた。
しかし第9試合に沢村栄治投手が快投を演じ、1−0で敗れはしたが、被安打5、三振9、四球1と大健闘をして注目された
。これを機にベースボール熱が高まり、日本にプロ野球が創設されることになった。

<社会>

4月21日、忠犬ハチ公の銅像が渋谷駅前に建てられた。

6月21日、非常時の被服の色としてカーキ色を国防色と制定した。

9月21日、室戸台風近畿地方を襲う。
被害は死者・行方不明3036人、建物被害8万2千戸を超えた。瞬間最大風速60メートルを室戸で記録した。

東北地方の稲作が冷害による大凶作となり、平年の40%減の収穫に落ち込んだ。その影響は大きく欠食児童が多数出た。
行き倒れや自殺など惨状を呈した。東北6県の女子の出稼ぎや身売りは5万8千人に達した。
この農村の窮乏が農村出身の青年将校を2・26事件のようなクーデターに向かわせる遠因となったといわれている。

<データ>

白米(2等10キロ)2円26銭、昭和8年には1円91銭であったが次第に高騰へ。

<世界>

8月19日、ヒトラー首相、ドイツ大統領となる。

 

昭和10年 1935年            戻る

<時代>

翌年の2・26事件への策謀が進行した前夜ともいうべき年である。経済的には軍需景気により、結婚ブームの年でもあった。
丹那トンネル開通が熱海への新婚旅行熱を煽った。

<政治>

2月18日、衆議院で菊池武夫らが美濃部達吉の天皇機関説を攻撃。4月7日、天皇機関説は不敬罪で告発される。
美濃部は貴族院議員辞職を条件として起訴猶予となる。天皇機関説とは天皇が国家を統治することも陸海軍を統帥することも認めるが、
むしろ政府が主体的にできるだけ立憲的に(憲法の範囲内で)自由主義的に国家を運営しようとする。
議会や内閣の権限を天皇の持つ大権威に対して相対的に認めようとする主張である(半藤一利:昭和史)。
後に「天皇独白録」によると、昭和天皇は天皇機関説に賛成であったことがわかる。
“私は国家を人体に譬え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば我が国体との関係は
少しも差し支えないのでは”と。

3月23日、日満ソ3国で北満鉄道買収協定に調印。
新京・ハルビン間が開通し、満鉄の「あじあ号」の運転区間が大連・ハルビン間944キロとなった。
赤い夕日に照らされた満州の広野を駆ける夢の超特急は日本国民にあこがれの満州像を創りだしていった。

7月16日、皇道派で偶像視されていた真崎教育総監が罷免される。陸軍の統制派・皇道派の対立が激しくなる。

8月12日、陸軍省軍務局長永田鉄山は統制派の中心人物で真崎更迭を企てたとして、皇道派の相沢中佐に執務中斬殺される。

<社会>

12月8日、皇道大本教(30万人の信者を擁する民衆の神道)はクーデターの企てがあるとして治安維持法違反で
教団幹部65人が逮捕された。

<経済>

12月25日、軍需景気で盛り場は人出が多く、歳末景気は賑わった。

ソーシャルダンピング(国内では高く、海外では安く販売すること)により、綿織物が市場最高の輸出量となった。
外国から非難を浴びたが、貿易収支は17年ぶりに黒字となった。

 

昭和11年 1936年            戻る

<時代>

陸軍の青年将校らによるクーデター(2・26事件)が勃発したが、そのもくろみは真崎大将を首班とする暫定政権を作り、
軍部主導による国家改造に突き進むというものであった。
天皇の側近を「君側の奸」として襲撃したことは天皇の怒りをかい、昭和維新は失敗に終わった。
この事件以降、軍部は政治支配力を高め、ドイツと防共協定を結ぶに到る。

<政治>

1月15日、政府はロンドン軍縮会議脱退を通告した。これにより建艦競争は無制限となった。

2月26日、皇道派の青年将校ら1483名が昭和維新の目的で政府要人を襲撃した。(2・26事件突発)

首相官邸で岡田啓介首相襲撃(首相を誤認し、義弟の秘書官岡田伝蔵大佐を殺害)。
斉藤実内大臣、私邸で殺害。高橋是清大蔵大臣、私邸で殺害。鈴木貫太郎侍従長、官邸で重傷。
渡辺錠太郎教育総監、自邸で殺害。牧野伸顕前内大臣、湯河原伊藤屋旅館で負傷。東京朝日新聞社襲撃。

2月27日、戒厳令宣告。2月29日、戒厳司令部は反乱部隊に対しビラとラジオで帰順を求めた。

下士官兵に告ぐ(戒厳司令部)

1 いまからでも遅くないから原隊に帰れ

2 抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する

3 お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いているぞ

5月18日、軍部大臣現役武官制復活。現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。
軍部からすると認めたくない内閣には大臣を送らないことで内閣が成立しなくなった。

7月5日、死刑17人、無期5人などの判決、7月18日、東京市の戒厳令解除。

<軍事>

11月25日、日独防共協定成立。

12月 西安事件から第2次国共合作へ。張学良が西安で蒋介石を監禁。周恩来が調停し国民党と共産党との連携した抗日運動が始まる。

<経済>

5月、自動車製造事業法公布。日本の自動車市場は日本フォード、日本GMからの輸入および国内組み立てに依存していたが
満州事変以降は国産自動車製造の必要性を痛感することとなった。
そのため自動車製造業を許可制とすることや米系2社の排除を打ち出した。

<社会>

8月18日、阿部定猟奇殺人事件、世俗の話題をさらう。

<スポーツ>

8月1日、ベルリン・オリンピック開催。ナチスドイツの宣伝活動に多大な役割を果たす。

日本選手は陸上と水泳で大活躍をした。
前畑秀子は女子200m平泳ぎで優勝。河西アナウンサーの「前畑ガンバレ」の連呼は後の語りぐさとなった。

男子200m平泳ぎで葉室鉄夫、1500m自由形で寺田登、800mリレーでは世界新記録で日本チームが優勝した。
陸上競技では三段跳びで田島直人が、マラソンで孫基禎が優勝した。