昭和19年  1944年           戻る

<時代>

日本軍は次第に制海権・制空権を失い、前線で次々と敗北・玉砕する。サイパン陥落後はいよいよ日本本土の空襲が秒読みとなった。
国民は食料も底をつき、あらゆる物資の統制下にあって闇価格の高騰に苦しみ、もはや勝ち目のない戦いに耐えていくしかなかった。

<政治>

2月21日、東条首相兼陸相が参謀総長を、島田海相が軍令部総長を兼任。
独裁者東条の地位を固めようとするがこの異例の措置は憲法違反ではないかと批判が集中する。

2月23日、毎日新聞が「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た。」「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ。」と
東条首相の政策を真っ向から批判した。これに東条は激怒し23日の毎日新聞は発売禁止となるがすでに配達済み。
記事を書いた記者は懲罰招集に遭う。

7月18日、東条内閣総辞職。7月22日、小磯国昭内閣発足。

東条暗殺計画もある中で、7月上旬にサイパンの守備隊が玉砕後、米軍機のサイパンを基地とする日本本土爆撃が
容易になった責任をとって総辞職、独裁政権は倒壊する。
これまで押さえつけられてきた国民の不満が爆発するかのように政治は急変するが遅きの感がある。
しかし後の「昭和天皇独白録」によると、昭和天皇は東条という人物を“ 一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周密で
中々良い処があった”など高く買っていたらしい。

<軍事>

1月24日、大本営、大陸打通作戦を命令。

2月1日、米軍、マーシャル諸島のクエジェリン・ルオット島へ上陸。2月6日、日本軍、6800名玉砕。

2月17〜18日、米機動部隊がトラック島を空襲。日本軍の被害は多大に及ぶ。

2月23日、米機動部隊、マリアナ諸島のサイパン・テニアンを空襲。

3月、インパール作戦を開始。5月中旬、参謀本部が中止命令を伝達。7月8日、インパール作戦、全員撤退命令。
日本軍の死者3万500人、戦傷病者4万2千人。この作戦の推進者は第十五軍司令官牟田口廉也中将で、
この人物の功名心のために行われたとされる無謀な作戦であった。彼は支那事変の発端となった廬溝橋事件発生時の責任者でもある。

3月30日〜31日、米機動部隊パラオを空襲。日本側の損害多く、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明・後に殉職となる。

6月11日、米機動部隊はサイパン、テニアン、グァムを空襲。日本軍の航空部隊壊滅。6月15日、米軍サイパンに上陸。

6月16日、B29初めて日本本土(九州八幡)を爆撃。
これは中国の成都から出撃した62機(75機が出撃したが故障や墜落が13機もあった)で、日本製鉄八幡製鉄所の被害は軽かったが、
八幡市街に500ポンド爆弾5発が落ち鉄道の不通と死傷者数百名を出した。本土も安閑としておれない状況に突入したことを意味する。
なお日本軍は
B29七機を撃墜し、4機を撃破し、中国基地に不時着したB29を駐支日本軍が爆破するなど米軍の被害は大きかった。
そのため米軍は出撃の基地を中国から太平洋側のサイパンに切り替えていった。しかし米本国ではその戦果を多大に発表し成功を賞賛した。

6月19〜20日、マリアナ沖海戦。日本は空母3,航空機395機を失い、海軍の残存戦力の大半を喪失した。
これで太平洋における制海権、制空権を喪失した。

7月7日、サイパン島の守備隊3万人玉砕および在留邦人1万人死亡。米軍死者3400人。占領した基地から日本本土爆撃が始まった。

7月21日、米軍、グァム島に上陸、8月10日、守備隊1万8千人玉砕。

8月3日、米中軍、ビルマのミートキナ占領。日本軍1万人玉砕。

10月12〜14日、台湾沖航空戦。大本営発表により、日本軍は大戦果を挙げたと報じられ日本国内は久々の勝利に沸き立ったが、
ほとんどが嘘で日本軍は航空機650機を失った。敵失は軽微であった

10月24〜26日、レイテ沖海戦。戦艦武蔵ほか戦艦3、空母1、改装空母3、重巡6など残存艦船をほぼ失う。

10月25日、レイテ沖海戦に神風特別攻撃隊が特攻開始。米軍に恐怖感を与えた。

11月24日、マリアナ基地から111機のB29、初の東京空襲。攻撃目標は武蔵野の中島飛行機工場。11月29日、B29初の夜間空襲。

<世界>

6月6日、連合軍は動員兵力200万人、艦船4,400、航空機2万5千機からなるノルマンディー上陸作戦を開始。
6月10日、大日本言論報告会は言論人総決起大会を開催し、ヒットラーに激励電報を送っている。

<社会>

1月11日、直接税大増税案(税率50%引き上げ)を閣議で決定。2月16日、物品税増税。化粧品、羽毛布団・座布団は12割の課税。

1月26日、東京と名古屋に建物の強制疎開(取り壊し)指定地域ができる。

2月25日、食糧増産のため学徒500万人動員を通達する。

2月29日、高級劇場(歌舞伎座、東劇、京都南座など)が閉鎖される。個人演奏会は禁止。

2月、東京都、ビアホール・百貨店・喫茶店などで雑炊食堂を開設。食材が浮いている程度の雑炊もあったが大人気となる。
一杯20銭で食券不要。

3月3日、国民学校で食糧増産のため運動場をも畑として使用。栄養状態の悪い児童に学校給食。

3月6日、新聞各社、夕刊を廃止する。

4月1日、国鉄は一等車・寝台車・食堂車を廃止、急行列車も削減。100キロ以上の旅行には警察の証明が必要となった。

7月11日、国民学校高等科、中等学校低学年も学徒勤労動員の対象に決定。

8月15日、国民からのダイアモンドの買い上げを開始。

8月22日、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」、事前連絡済みにもかかわらず米潜水艦により雷撃沈没。

12月7日、東南海地震発生(M8)。愛知・静岡・三重に大地震と津波の大災害が起こった。名古屋の重工業地帯も被害甚大。
しかしこの情報が敵に知られることを恐れたため、厳重な報道管制がしかれ公表されなかった。
死者1223人、負傷者2864人、全半壊家屋5万6千戸、堤防決壊155個所に及ぶ。津波による流失3千戸。

 

昭和20年  1945年           戻る

米軍の日本焦土化作戦
B29による大空襲

 

<時代>

戦争指導者の決断の遅さが自滅への時間を引き延ばしていく。硫黄島、沖縄を失う。東京大空襲、日本全土に空襲が拡大。
原爆投下、ソ連参戦を経て日本無条件降伏。虚脱状態となる。人々は戦争が終わると、その後どうなるのか想像もできなかった。
神風という天佑神助への期待も少しはあったが期待は打ち破られた。そしてマッカーサーの占領政策が始まる。

<政治>

4月5日、小磯内閣総辞職。ソ連外相、日ソ中立条約を延長せずと駐ソ大使に通告。

4月7日、鈴木貫太郎内閣発足。

5月8日、トルーマン大統領、日本に無条件降伏を勧告したが、日本政府はあくまで戦争完遂として拒否。

6月6日、御前会議で本土決戦方針を決定。

7月10日、戦争指導会議でソ連に戦争終結の斡旋依頼を行うため近衛元首相の派遣を決定したが、7月18日、ソ連受け入れを拒否。

8月14日、御前会議でポツダム宣言受諾を決定。

8月15日、戦争終結の詔書を天皇が放送(玉音放送)、国民はかしこまってこの放送を聴く。
“朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。
朕ハ帝国政府ヲシテ、米英支蘇四国ニ対シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。…”

鈴木内閣総辞職。8月17日、東久邇内閣発足。

8月28日、進駐軍第1陣、厚木に到着。

8月30日、連合軍最高指揮官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木に到着。
人々は神風という天佑神助を期待したが、神風は吹かなかった。

9月2日、降伏文書に調印。10月5日、東久邇内閣総辞職。

10月9日、幣原喜重郎内閣発足。

<世界>

2月4日、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談。ドイツの戦後処理とソ連の対日参戦が話し合われた。

4月12日、米ルーズベルト大統領死去。後任はトルーマン。

4月28日、伊ムッソリーニ銃殺。4月30日、独ヒットラー自殺。

5月8日、ドイツ、連合国への無条件降伏文書に調印。

<軍事>

2月16日〜17日、米機動部隊、艦載機1200機で関東各地を波状攻撃。

2月19日、米軍硫黄島上陸、3月25日、守備隊玉砕。日本側戦死戦傷者2万933人。
米軍同2万8686人と米軍の被害が日本軍を上回ったことが注目された。

3月10日、東京大空襲。死者は推定で10万人に達した。米軍の焦土作戦による空襲が日本国中に拡大していく。

4月1日、米軍沖縄上陸。6月23日、守備隊全滅。戦死者9万人、住民10万人死亡。

4月7日、戦艦大和魚雷攻撃により轟沈。

8月6日、広島に原爆投下。死者は推定で20数万人に及ぶ。

8月8日、ソ連対日宣戦布告。ソ満国境を越えてソ連軍が攻撃進入。

8月9日、長崎に原爆投下。

<社会>

1月13日、三河地震、東海地方にまたしても大地震発生。死者1961人、全半壊1万7千戸におよぶ。

6月 大都市の人口、激減する。東京の人口は前年2月の国勢調査時の約3割に減少し220万人となった。
あいつぐ大空襲によって、焼け野が原になり都市の機能を失ったからである。

8月9日、防空本部は新型爆弾(原子爆弾)に対する対策を発表したが、
白衣を着て横穴壕に待避せよ等というものだった。なぜ白衣を着るのだ。

8月15日、天皇の「終戦の詔書」玉音放送を聞いた国民は、皇居二重橋の前に正座してむせび泣く者が引きを切らなかった。
その後、高級将校の自決や右翼関係者の集団自決事件がおこる。

8月20日、灯火管制解除により家庭に光が戻った。

8月22日、樺太からの引き揚げ船小笠丸、第2新興丸、泰東丸が国籍不明の潜水艦の攻撃で沈没。
死者は1708名に及ぶ。新聞社は国籍不明と書かざるを得なかったのではないか。
(参考:昭和19年8月22日学童疎開船対馬丸、米潜水艦により、沈没)

8月23日、新聞に天気予報の掲載が再開した。

8月、この時期、伊勢湾では鰯の大群が押し寄せ、豊漁。東南海地震(昭和19年12月)、
三河地震(昭和20年1月)の影響ではないかとの噂も。

9月11日、隣組緊急回覧板で、婦人は進駐軍に笑顔を見せるなと警告を発す。
9月8日、米軍、東京にジープで進駐。
9月9日、米兵によるギャング事件が銀座、大森で発生。