<時代>
日中戦争から手を引けない状態の中で、日独伊三国同盟を締結、日ソ中立条約に調印。
米国の石油対日禁輸などのABCD包囲網により、資源供給の枯渇をきたした。
政府は対米交渉を模索するが成果はなく、遂に大東亜戦争に踏み切ることになった。
緒戦は輝かしい戦果を挙げ、国民は戦勝ムードに酔いしれるが、それは短期間のことであった。
<政治>
7月16日、第2次近衛内閣総辞職。7月18日、第3次近衛内閣発足。10月16日、第3次近衛内閣総辞職。10月18日、東条英機内閣発足。
4月13日、モスクワで松岡外相とスターリンが日ソ中立条約に調印。
4月、日米交渉の諒解案について、野村吉三郎大使交渉にはいる。
諒解案成り、日本政府統帥部で全員賛成となったが、松岡外相の反対で前進できず。
8月7日、近衛首相とルーズベルト大統領の太平洋上会談を野村大使に訓令したが、9月3日事実上の決裂。
<軍事>
1月8日、東条英機陸相、「戦陣訓」を全軍に示達。「生きて虜囚の辱めを受くる勿れ」で悪名高い。
本訓は3部に分かれ皇国、皇軍、軍紀、必勝の精神など集団道義(1)、敬神、孝道、質実剛健など個人道義(2)、
戦陣の戒め、戦陣の嗜(3)などが書かれている。
7月28日、日本軍、南部仏印に進駐。
11月5日、御前会議で対米交渉の結果如何で対米英蘭戦争を決意。
11月6日、大本営は連合艦隊に戦争準備の指令、南方軍には要域攻略準備命令。
11月23日、エトロフ島・単冠湾に集結した機動部隊にハワイ・真珠湾に集結した米海軍艦隊に奇襲決行の命令を発信する。
11月27日、ハル・ノートを日本への最後通牒と判断する。
12月8日、シンガポール攻略を目指し、第18師団侘美支隊はマレー北部のコタバルに奇襲上陸。
タイ南部のシンゴラとパタニーにも上陸、タイへ進駐。
ハワイ・オアフ島の米太平洋艦隊に対して空からの攻撃を行い、壊滅的打撃を与えることに成功。
臨時ニュースで「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と放送。遂に大東亜戦争に突入。
12月10日、マレー沖海戦で英戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈。12月16日、英領ボルネオに上陸。
12月22日、ルソン島のリンガエン湾に上陸。12月23日、ウェーキ島占領、12月25日、香港占領など大本営海軍部発表では
緒戦において日本軍は各地で輝かしい戦果を挙げたのだが、戦線は一気に拡大していった。
<経済>
5月、日米戦力比較。渡米した陸軍省軍務局軍事課長岩畔豪雄大佐らによって明らかにされる。
(飛行機保有)昭和16年、米19,433機、日米対比1対4。(製鋼)米9,500万トン、日米対比1対20。
石油産出、米1億1千万バーレル、日米対比1対数百。船舶保有量米1千万トン、日米対比1対2。
電力米1714億5600万キロw、日米対比1対6。
7月25日、米、在米日本資産を凍結。7月26日、英、在英日本資産凍結。
8月1日、米、発動機燃料、航空機用潤滑油の対日輸出停止。
<世界>
2月15日、米英蘭豪、太平洋を巡る防衛のための4ヵ国会議開催。
6月22日、独軍ソ連領に進入開始、独ソ戦始まる。7月12日、英ソ相互援助協定調印。
<社会>
1月23日、「産めよ増やせよ」をスローガンとした人口政策を政府閣議で決定。
5月、結婚費用の貸し付けと出産によるご褒美としての天引き、子宝手当の支給試案を発表。
2月11日、李香蘭、日劇に出演。切符を求める者が日劇を取り囲む行列を作るほどの人気。
警察は「建国祭をもっと有意義に過ごしてはいかが、今すぐ入場をあきらめて帰りなさい」と説得した。
2月、警視庁、隣組組織によるバケツ式消化体制を強化。
3月1日、国民学校令を公布。尋常小学校から国民学校と改称し、初等科6年、高等科2年とし、この期間を義務制とした。
4月1日、米穀通帳と外食券制、6大都市で個人宛配給量を年齢別に定める。
例えば11才から60才(甲種)1日2.32合、普通増量を受ける労働者(甲種)2.745合など。
4月、スパイを取り締まるため、写真撮影に厳しい処罰が科せられる。
10月、奉公日を「戦争物資動員の日」とし、金属類の供出を強制された。門、門扉、広告塔、看板、火鉢、格子などの鉄・銅・青銅製品が対象。
<時代>
戦勝ムードは開戦から半年もすると、下火となっていった。戦線は拡大するばかりであった。国民は次第に耐乏生活を強いられる。
しかし勝利を信じて国家と命運をともにする他はなかった。
<軍事>
1月2日、日本軍、米軍を退け比島の首都マニラ占領。
1月23日、ニューブリテン島ラバウルを占領。
1月31日、シンガポール島の英軍に砲撃を開始。
2月14日、日本落下傘部隊がスマトラ島パレンバンに降下。空の神兵とうたわれた。精油所を占領。
2月15日、日本軍、英軍を退けシンガポール陥落。英パーシバル司令官、山下奉文司令官に降伏。
英軍約10万。シンガポールは昭南島と呼称を変える。
2月19日、日本軍、豪州のポートダーウィンを大空襲。
2月27日〜3月1日、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦で、米英豪艦隊は壊滅。蘭印作戦が成功裡に進む。
(蘭印とはオランダ領インドシナ、現在のインドネシア)
3月8日、ビルマのラングーン占領。3月9日、蘭印軍降伏。
4月11日、日本軍、米比軍を破りバターン半島占領。
飢餓状態にある米軍捕虜3万5千人を収容所まで長距離を歩かせ、「バターン死の行進」問題を引き起こした。
4月18日、米ドゥーリトル中佐の率いる16機が空母ホーネットから発進。日本本土を初空襲。
東京、横須賀、名古屋、神戸など被弾する。爆撃後は中国の米軍基地ほかに着陸。
5月7日、比コレヒドール島の米軍降伏。珊瑚海の海戦。
6月5日、日本艦隊、ミッドウェー海戦に大敗する。空母4隻、重巡1隻、飛行機320機、兵3500人を失う。
これに対し米軍は空母1隻、駆逐艦1隻、飛行機150機、兵307人を失う。この海戦が太平洋戦争勝敗の転換点となった。
6月7日、日本軍、ミッドウェー作戦中止、日本軍キスカ島占領。6月8日、日本軍アッツ島占領。
7月11日、大本営、南太平洋侵攻作戦の中止を決定。
8月7日、米軍、ガダルカナル島に上陸。8月8日、第1次ソロモン海戦。8月20日〜21日、日本軍増援部隊約900名全滅。
10月26日、太平洋海戦で米空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを中破するも日本軍は機動部隊の保有機の半数約70機を失う。
12月8日、ニューギニア・バサブアの日本軍全滅。
12月10日、御前会議で、「当面の戦争指導上作戦と物的国力の調整並びに国力の維持増進に関する件」を決定。
東条内閣は国力の現状から南太平洋における作戦指導上の要請を満たし得ないことを認めた。
12月21日、御前会議で大東亜戦争完遂のための対支処理基本方針を決定。
<世界>
2月19日、米ルーズベルト大統領は日系人を軍事地域から閉め出し、3月2日、日系人約11万人を強制収容所に収容した。
11月19日、ソ連軍、独軍に対して、スターリングラードで大反攻に転じる。
<社会>
1月2日、興亜奉公日を廃止し、毎月8日を大詔奉戴日とすることになった。
この日は学校や職場で詔書奉読式、必勝祈願、各戸の国旗掲揚、職域奉公を義務づけられた。
1月16日、戦争完遂目的で大増税が行われた。50円以上の月給取りに1割の所得税を課すことのほか
新たに電気ガス税、広告税、馬券税が登場。
2月1日、衣料品の点数切符制が敷かれた。
2月2日、愛国婦人会、国防婦人会、連合婦人会が大日本婦人会に統合発足。
8月27日、12月3日、国策的戦争映画の名作が封切り
「マレー戦記」(日本映画社、陸軍省監修 8月27日封切り)はマレー半島を一路シンガポールへと南下する自転車部隊や
英軍の無条件降伏を迫る山下奉文中将に国民は熱狂した。
「ハワイ・マレー沖海戦」(東宝、大本営海軍部 12月3日封切り)は模型装置による特撮で、真珠湾攻撃とマレー沖海戦で
英国の不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈した戦闘場面を再現した映画で、当時としては破格の制作費を投入した。
観客は迫力ある戦闘場面に酔いしれた。主人公の少年が予科練の厳しい訓練に耐えて成長していく姿に胸躍らせた。
この映画は人気を博し、どの映画館も観客が超満員となったほどである。
そしてこの映画に刺激されて予科練に志願する若者が急増したといわれる。
当時すでに敗色濃い状況の中でこのような国策映画が人心を煽ることになったのは痛ましいことである。
11月15日、「欲しがりません勝つまでは」など10点が大東亜戦争一周年の国民決意標語に選ばれた(大政翼賛会と新聞社の共催)。
この標語は東京・三宅阿幾子の作であるが、後に父親の作であることがわかった。応募数は32万通に及んだ。
12月17日、元旦を除く年末年始の休暇を廃止。
撃ちてし止まむ 宮本三郎画伯の 陸軍省が配布した |
<時代>
守勢敗勢濃くなる。山本五十六司令長官の戦死の報が国民に衝撃を与える。国を挙げての戦争へと庶民は狩り出されていく。
大東亜共栄圏構想のもとに大東亜会議が開催される。同盟国イタリアが無条件降伏する。
<軍事>
2月1〜7日、ソロモン諸島ガダルカナル島より日本軍撤退、損害は死者2万800人、艦船4隻、航空機973機など。
マラリアや餓死による死者が多数に及んだ。
3月2日、徴兵令改正公布により朝鮮に徴兵制実施される(8月1日)。
3月10日、陸軍記念日に「撃ちてし止まむ」の標語ポスター5万枚を配布。
4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官戦死。前線兵士の士気高揚のための基地訪問の通報が暗号を解読され待ち伏せ攻撃をうけた。
この事件はしばらく極秘にされたが大本営は5月21日発表。6月5日、国葬に。
5月29日、日本軍アリューシャン列島のアッツ島守備隊2千数百名玉砕。
5月31日、御前会議で「大東亜政略指導大綱」でフィリピンの独立などを決定。
8月1日、ビルマ政府は独立宣言を行い、米英に宣戦布告をする。
9月23日、台湾に徴兵制実施を決定。
9月30日、御前会議で絶対国防圏を千島、小笠原、マリアナ、カロリン群島、西ニューギニア、スンダ、ビルマとし戦線を縮小する。
10月14日、フィリピン共和国独立宣言。日比同盟条約調印。
11月1日、連合軍、ブーゲンビル島に上陸。
11月5日、大東亜会議を東京で開催。参加国は日本、満州、タイ、フィリピン、ビルマ、汪政権代表(中国)、で大東亜共同宣言を発表。
自由印度仮政府首班チャンドラ・ボースも陪席する。
11月23日、日本軍、マキン、タワラ守備隊全滅。
<世界>
4月19日、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人の反ナチス武装蜂起。
9月8日、イタリア無条件降伏。
11月22日、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石、第1回カイロ会談で日本の無条件降伏、満州・台湾の返還、朝鮮独立を決める。
<社会>
1月17日、煙草大幅値上げ。1月18日、清酒他酒類も大幅値上げ。
4月3日、春の連休に行楽客や買い出し部隊が東京、新宿、上野などの駅に殺到。
新聞には“時局を忘れた行楽客または不心得者”と表現されている。まだ余力があったのか、
上からの統制に反発するつかの間の行楽と言うべきか。
9月2日、上野動物園では空襲時に猛獣が逃げ出す怖れがあるとして、ライオン、虎、豹などを毒殺。象は餓死させた。
10月2日、学徒出陣。学生の徴兵猶予が停止となった。10月21日、雨の神宮外苑競技場で学徒出陣の悲壮な壮行会が行われた。
12月10日、文部省、学童の縁故疎開を推奨する。12月28日、疎開を急ぐ人々が促進事業所に殺到したが、当局の対応追いつかず。
12月24日、徴兵年齢が1年引き下げられた。