<時代>
廬溝橋事件は日中戦争・太平洋戦争の口火となった。
戦勝の報道と軍需景気に沸く反面、戦いは膠着し、戦時統制経済へと世の中は進んでいった。
<政治>
1月21日、浜田国松代議士が軍部を攻撃、寺内陸相との間に「腹切り問答」があった。
1月23日、広田内閣総辞職
2月2日、林銑十郎内閣発足するも軍部の圧力により5月31日総辞職。6月4日近衛文麿内閣発足。
4月30日、衆議院総選挙で無産政党が多数当選し議会地図を塗り替えることになった。
10月27日、広田外相は第3国による日支両国の和平への橋渡しを受諾する用意があることを表明。
駐中国ドイツ大使のトラウトマンが交渉に当たることになった。日本側の条件を蒋介石は一度は拒否したが、受け入れる用意があると述べた。
しかし日本側では軍の強硬派がこの受諾案を拒否したため、日中和平の夢を託した「トラウトマン工作」は徒労に終わった
。この時期日本軍は首都南京を陥落する直前にあり、「蒋介石の国民政府を相手とせず」とも中国を屈服できるとあなどっていた。
そして南京が陥落しても蒋介石は降参することはなく、日本軍は泥沼にはまりこんでいくのである。
事後の憶測に過ぎないが、もしトラウトマン工作を受諾していたらどうなったであろうかと思う。
<軍事>
2月10日、国共合作への道、前進する。国民党が内戦停止、言論・集会・結社の自由、政治犯の釈放、共同して救国にあたることを決定。
共産党は武装暴動方針停止、紅軍を国民革命軍に改称。地主の土地没収停止、抗日民族統一戦線の共同綱領実施を保証するなど。
2月19日、兵役施行令改正により、徴兵検査の合格基準が身長で5cm緩和された。
7月7日、廬溝橋での十数発の銃声が日中両軍の衝突を引き起こし、支那事変勃発。泥沼の日中戦争が始まる。
宣戦布告なき戦いは事変といい戦争と区別があるようだが、7月11日、近衛内閣は中国一撃論を唱える軍部の強硬派の意見により出兵を表明、
7月27日、内地の3個師団に派遣命令を下すに至った。もはや戦争である。
7月9日、上海事変。海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が中国軍の発砲により死亡。
7月29日、冀東政府保安隊、通州で反乱。日本人180人を殺害した。
8月13日、海軍陸戦隊と中国軍が戦闘にはいる。8月13日、上海への陸軍派遣を閣議で決定。
8月27日、国民精神総動員実施要綱決定。
9月12日、上海楊行鎮占領。9月24日、平漢線の要衝保定と津浦線の滄州占領。
11月5日、陸海軍は杭州湾岸に奇襲上陸。11月12日上海を占領。11月14日蘇州を追撃。
12月12日、日本軍首都南京入城。マスコミは一番乗りはどの部隊かを煽った。百人斬りを始めとする大虐殺事件を起こすことになった。
日本兵は終焉しそうにない戦争の中で精神に異常をきたしたのだろうか。南京が陥落すれば戦争は終わると相手を甘く見ていたのではないか。
日本側発表ではわが軍の被った損害は戦死者合計4800名で、敵方死体遺棄8万4千、捕虜1万5百とあるが、
南京虐殺の人数は30万人とする説もあり、いまなお論争の種となっている。
12月14日、東京を始め全国で南京陥落の祝賀提灯行列が行われた。
その後も戦争は継続したことにより、中国戦線での日本人戦死者の数は39万人に達した。戦後死亡したものを入れると44万4千人に及んだ。
<経済>
2月22日、軍需景気で東京株式市場の取引高が新記録の142万株となった。
9月10日、臨時調整・統制・措置・管理法公布される。戦時統制経済の様相を深めた。内容は戦時金融統制基本法、米穀応急措置法公布。
輸出入品等特別措置法公布。臨時船舶管理法公布。軍需工業動員法の適応に関する法律公布施行など。
<社会>
4月1日、郵便葉書が1銭5厘から2銭に、同封書は3銭から4銭に値上げ。これは37年ぶりの値上げである。
4月6日、朝日新聞社の純国産機「神風号」が東京ロンドン間を94時間17分56秒で飛んだ。
搭乗者は飯沼操縦士と塚越機関士で立川、台北、ハノイ、ビエンチャン、ラングーン、カルカッタなどを経て
ロンドンのクロイドン飛行場に到着した。これは欧亜連絡飛行の世界記録であった。
8月 「綴方教室」が中央公論社から出版される。「赤い鳥」のスター投稿者である豊田正子の個人文集で、
昭和13年に出した「続・綴り方教室」とともにベストセラーとなった。
鈴木三重吉が行った「自分が見たまま感じたままを自分の言葉で書く」という運動の成果である
。しかし貧窮の生活の中で育った少女のありのままの言葉は受け入れられなくなる。やがてこの運動に関わった教師約300人は
治安維持法違反で逮捕されるに到る。
11月12日、林長二郎、暴漢に襲われて顔を切られて重傷。
千人針と慰問袋を大陸に送る運動が広がった。千人針とは千人の女性が腹巻きやチョッキに赤い糸で結び目を縫いつけると
弾に当たらないというおまじないで、肉親の武運長久の祈りを込めたもの。
<世界>
スペイン内戦。2月7日、フランコ率いる反乱軍が南部の港町マラガを陥落。4月26日、ドイツ空軍コンドル軍団がゲルニカを無差別爆撃。
世界各国から義勇軍が駆けつけ戦った。ピカソの傑作『ゲルニカ』はこのときの作。
ヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』はフランコ軍に対抗した国際義勇軍を描いたものである。
<時代>
資源の枯渇に備えるため、統制経済下の使用制限と管理が強化されていく。国家総動員法が公布され、戦時体制に入った。
<政治>
1月16日、近衛内閣は和平工作打ち切りを中国に通達した。「爾後国民政府を相手にせず」と言明。
1月17日、軍需工業動員法を発動し、関連工場を政府管理下においた。
3月3日、衆議院の国家総動員法の審議中、説明員の佐藤賢了大佐は議員に対して黙れと発言し問題化した。
説明員は大臣の補佐役にすぎないにもかかわらず、自己の信念を長時間にわたり説明に及んだ。
軍部の横暴さや国会軽視を示している一例であろう。
3月28日、南京に日本軍指導の中華民国維持政府が成立した。
4月1日、国家総動員法公布。佐藤中佐へのお咎めは何もなかった。
<経済>
5月1日、ガソリンが切符制となる。代用品として木炭車が走ることとなる。
5月27日、銑鉄・鋳鉄の製造制限。6月23日、企画院作成の物資需給動員計画に従い重油・鋼材など33品目に使用制限が決定。
6月29日、綿花や羊毛の輸入制限に加え、商工省から「綿製品非常管理」の措置により混紡製品でも政府の管理下に置かれるようになった。
そこで代用繊維としてスフ(ステープルファイバー)が登場した。これは水に濡れると縮むなど評判が悪かった。
8月4日、警視庁保安部に経済警察設置。統制品の配給と主要品目の価格の取締に乗り出す。
8月4日、乗用車の製造中止。
<軍事>
7月15日、張鼓峰で日ソ軍衝突したが、8月15日休戦協定成立。
10月21日、日本軍、広東を占領。10月27日、日本軍中国の要所武漢三鎮を占領。その後日中戦争は膠着状態となる。
<社会>
1月3日、女優岡田嘉子、新協劇団の演出家杉本良吉と樺太経由でソ連に越境。
2月1日、大内兵衛、有沢広巳らの教授グループ32名が検挙される。
パーマネントウェーブ専門の美容院が急増した。しかし警視庁衛生部では保安衛生上の見地からこれを取り締まるに及んだ。
政府、大陸の花嫁養成に力を入れ始める。日本人が指導者となる新天地満州を建設するためにその必要性を説き、喧伝するに到る。
しかしこれに呼応して渡満した日本人のほとんどはやがて軍隊や国からも何の支援も得ることもなく大陸で悲惨な目に遭い
むなしく帰国することになった。
<世界>
3月13日、ドイツ、オーストリアを併合。9月29日、ドイツ、ズデーデン地方併合要求が承認される(ミュンヘン協定)。
<スポーツ>
7月15日、東京オリンピック(第12回大会)を返上、万国博覧会開催も中止と決定。
日本政府は聖戦目的を達成のため、この決定をやむなしとした。さらに第2次世界大戦のため
オリンピックは第14回ロンドン大会まで12年間の空白となった。
<時代>
日独伊三国同盟や独ソ不可侵条約、欧州の第2次大戦、ノモンハンでのソ連との近代戦の死闘など日本を取り巻く世界情勢の厳しさが
日本に襲いかかってきた。国内では資源の不足と厳しい統制経済・ヤミ市場が国民の生活を暗い方向へと追い込んでいく。
<政治>
1月4日、近衛内閣総辞職。1月5日、平沼騏一郎内閣発足。
この頃、ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案があり五相会議(総理、外務、大蔵、陸軍、海軍)で連日の検討を行う。
陸相は軍事同盟を主張、海相・外相は反対で結論は出ず。
6月6日、五相会議。中国に新中央政府樹立(王兆銘)の方針を決定。
7月8日、国民徴用令公布。白紙一枚で国民を軍需工場に動員することができるようになった。白紙の召集令状といわれた。
文部省では中等学校以上の生徒学生を勤労奉仕させるのは正課の授業の一環として組み込んだ。7月15日実施。
8月28日、平沼内閣「欧州情勢は複雑怪奇である」として総辞職。敵対関係であるはずの独ソが不可侵条約を結んだため。
8月30日、阿部信行内閣発足。
<経済>
7月26日、米国、日米通商航海条約破棄を通告。
8月5日、輸出入臨時措置法に基づく生活必需品の配給統制を実施。
10月1日、石油配給制実施。
10月20日、物価・運賃・賃金を9月18日の水準で凍結し物価を統制を実施。ヤミ時代に入ったと言える。
<社会>
2月16日、広告塔などの不要な鉄製品の回収を始める。
3月31日、従業員雇用制限令、賃金統制令、工場就業時間制限令公布。
4月12日、米穀配給統制法公布。米屋が許可制となる。
5月12日、警視庁が事変が起こると自殺者が激減するという統計を発表。
6月16日、パーマネントや学生の長髪禁止、中元歳暮などの贈答を廃止する。
8月25日、ドイツに対し独ソ不可侵条約は防共協定違反であるとして抗議。
9月1日、毎月1日を興亜奉公日と決定。この日は前線で戦っている兵士に感謝し、華美な生活や安楽な生活を引き締め、
前線の兵士を偲ぶ日と定めた。国民精神総動員運動の一環である。早起きをして神社に参拝、君が代斉唱、宮城遙拝でその日が明ける。一汁一菜の質素な生活。禁酒禁煙、享楽廃止などと徹底している。
12月1日、白米禁止令実施。7分づき以上は禁止となる。
12月26日、朝鮮人の氏名を日本式に創氏改名することを強制法令化した。
<スポーツ>
1月15日、5場所連続全勝中の横綱双葉山が安芸の海にやぶれ70連勝ならず。
<軍事>
2月10日、日本軍海南島に奇襲上陸。これは援蒋ルート封鎖作戦の一環である。後の仏印進駐の基点となった。各国からその真意を問われることとなる。
4月25日、国策ペン部隊満州に出発。満州開拓に関心のある文学者達が拓務省と連携し活動。文章による報国が目的。
5月11日、ソ満国境で日本軍と蒙古・ソ連軍衝突。ノモンハン事件始まる。国境線があいまいであったこと、陸軍参謀本部の対ソ作戦指導とそれに不満を抱いていた現地関東軍の中枢との意見不一致、ソ連が極東の軍備拡張政策をとっていたことなどが原因である。それまで関東軍は不敗を誇っていたが、この戦闘はこれまでになかった近代兵器と機動力を駆使しての戦いであった。日本軍は6月までの第1次戦闘では空軍の活躍により面目を保ったが、それ以降の第2次戦闘では壊滅的損害を出すことになった。この事実に対する何らの反省もなく日本は太平洋戦争に突入し同じ敗北を味わうことになった。
8月20日、ノモンハンでソ連軍、全戦線で大攻勢に出る。関東軍第23師団ほぼ全滅。9月15日、東郷大使、モロトフ外相によりノモンハン事変の停戦協定成立。
12月12日、軍事機密保護法改定により高いところからの俯瞰撮影やスケッチは禁止となる。
<世界>
8月23日、独ソ不可侵条約調印。9月28日、モスクワで独ソ友好条約調印。
9月1日、ドイツ軍ポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まる。伊、中立宣言。英仏、ドイツに宣戦布告。ベルギー、オランダ追従。スペイン、米、中立宣言。ソ連、ポーランドの東部占領。この段階では戦禍を交えるところまではいかず、にらみ合い状態となる。
<時代>
日独伊三国同盟締結により世界の大国とのつながりの地図が大きく変わることになった。日中戦争は解決の目途も立たないまま、日本は北よりも南方の資源に視野を移していく。国内は紀元2600年の祝賀によって沈滞する国民の意識の高揚を図ろうとする。欧州ではドイツが破竹の勢いで各国に侵攻を始める。「一億一心」、「八紘一宇」とともに「南進日本」がこの年の標語になった。
<政治>
1月14日、阿部内閣総辞職。協調路線を打ち出そうとしたが、内外ともに問題を解決できず短命内閣となった。1月16日、米内光政内閣発足。海軍大将で穏健派。親英米路線が陸軍に嫌われ短命内閣で終わる。7月16日、米内内閣総辞職。7月22日、第2次近衛内閣発足。日独伊三国同盟締結によりアメリカとの対立の溝が深まった。軍部の独断的軍事行動が目立ち対米英戦を辞さずという勢力が強まる。
2月2日、民政党斉藤隆夫代議士、衆議院で勇気ある反軍演説を行う。しかし問題化し3月7日除名処分となる。
9月27日、日独伊三国同盟に調印(ベルリン)。
11月10日、紀元2600年の奉祝に沸く。昭和15年は日本書紀の神話に基づく記念すべき年であるとして国を挙げての式典が行われた。「金鵄輝く日本の 栄えある光身に受けて いまこそ祝へこの朝 紀元は二千六百年 … 」という奉祝国民歌が国中で歌われた。国家総動員法の下、「一億一心」が標語となった。
11月、米神父ウォルシュとドラウトが来日、日米国交打開策を持参し、近衛首相とも会談。その案は「ルーズベルト大統領と近衛首相がアラスカまたはハワイで会談し両国間の懸案を一挙に調整する」というものであった。日中戦争の解決案、日米通商問題をからめた内容であったが、日本側では足並みが揃わなかった。
11月24日、西園寺公望死去。歴代の首相は天皇の御下問に西園寺公がこたえる形で行われていた。信条としたのは立憲君主制と国際協調の穏健派路線であった。
<軍事>
9月23日、日本軍、仏印北部に侵攻。
<経済>
10月16日、米、くず鉄の対日禁輸実施。
<社会>
4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖などの日用品切符制決定。6月1日より6大都市で実施。
7月10日、左翼出版物の弾圧強化。
8月1日、「贅沢は敵だ!」の立て看板が東京の各地にお目見え。
10月31日、たばこのバットが金鵄に、チェリーが桜に改名。この年、このような英語表記が次々に日本語に改名された。
11月3日、厚生省は10人以上の子持ちの家庭を優良多子家庭として特別表彰した。産めよ増やせよ運動として。
<世界>
4月9日、独軍、ノルウェー、デンマークに侵攻。
5月10日、ドイツ軍、北フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵攻。
5月27日、英軍、ダンケルク撤退。
6月10日、イタリア、英・仏に宣戦布告。
6月14日、独軍、パリに無血入城。6月22日、独仏休戦協定調印。