昭和元年(大正15年)  1926年     戻る

新元号は昭和

12月25日 大正天皇、48才にして崩御される。摂政裕仁親王皇位を継承。年号は昭和と改元という詔書が公布された。
昭は光明、和は平和を表すとされたのだが。

号外誤報

東京日々新聞ほかの新聞社はこの日号外を発行し、新元号は光文であると報じたが正式発表前のスクープであったため、
不謹慎であるとして一転して昭和に変更になった。世紀の誤報事件となった。

演芸放送停止

12月25日はクリスマス、NHKでは天皇御小康とみて童謡とクリスマス音楽特集を報送する予定であったところ取りやめとなる。

高野山金堂焼失

時おりしも高野山で金堂より出火し、本堂の本尊、薬師如来などの国宝を焼失した。

<時代>この時期、人々は大正12年9月1日の関東大震災から立ち上がろうとしているが、不景気により失業者があふれている。
しかし元号が代わったことを機に明治、大正から決別するときが来たことを感じた。
しかし現実は「昭和」の意味とはまるで逆の方向に推移することとなるのである。

<政治>第1次若槻礼次郎内閣が継続。

<データ>白米(10キロ)3円20銭

昭和10年代の後半、この地図の日本の勢力の及ぶ地域は赤い色が塗ってあった。
少国民の私はその広さに驚嘆し、日本という国に誇りを感じていたものだ。
戦果が拡大し最も広がっていたときにはこの地図のほとんど
(ソ連、中国の奥地、インド、オーストラリアを除く)が赤く塗られていた。
それが次第に色あせて、日本本土だけが日本になってしまった。
これが昭和前半の歴史であり、結末でもある。

 

昭和2年、1927年            戻る

<時代>金融恐慌の到来。不況は深刻となり、労働争議が続く。自殺者も多い。

<政治>4月20日より田中義一内閣発足。内外ともに強硬路線をとった。

<経済>

金融恐慌

3月15日、企業や銀行を救済する目的で作成した法案審議の中で、片岡蔵相の失言“今日、渡辺銀行が破綻しました”を
発端にして各地で銀行の取り付け騒ぎが発生した。渡辺銀行、あかぢ貯蓄銀行が休業。
他の中小銀行数行も休業のほか、安田、第百、川崎など一流銀行も取り付け騒ぎに巻き込まれた。
4月22日、政府はモラトリアム(支払い猶予令)を発動。

労働争議

6月、大日本紡績争議、9月、野田醤油がストに突入、216日におよぶ戦前最長の争議となる。

<社会>

7月24日、芥川龍之介自殺(36才)。遺言にある「何か僕の将来にあるぼんやりとした不安」は
当時の社会の将来に対する不安を感じさせるものでもあった。

不況下での生活苦や疾病苦による自殺者も相継いだ。

5月21日リンドバーグ、大西洋無着陸横断飛行に成功。

6月20日ノルウェーの探検家アムンゼン日本訪問。

12月30日 初の地下鉄、東京上野―浅草間に開通、運賃は10銭。

「何が彼女をそうさせたのか」藤森成吉の戯曲で築地小劇場は連日満員となる。プロレタリア文化運動が盛んになる。
写真(昭和5年参照)は後に映画化されたときのポスター。

モガ・モボ(モダンボーイ・モダンガール)、シャン、円本、大衆など流行語となる。

<軍事>

4月1日、徴兵令を改め兵役法公布。5月28日、第1次山東出兵を声明、7月2日派兵。

 

昭和3年 1928年            戻る

<時代>

御大典やオリンピック優勝などの明るい話題が景気づけとなり小康状態ながら、経済の基盤は弱く不安感が漂う。

満州某重大事件で田中義一内閣崩壊。思想上の弾圧強まる。

<軍事>

4月19日第2次、5月8日第3次山東出兵を決定。蒋介石北伐軍を阻止する挙に出た。
5月済南市の戦闘で中国国民政府軍4000名の犠牲が出たことで中国全土に反日感情が高まった。

6月、張作霖爆殺事件は関東軍参謀河本大作大佐らの謀略によって起こった。
軍部は満州某重大事件としてカムフラージュしようとした。この軍部の独走を隠し通そうとしたことにより
田中義一首相は天皇の怒りを買い叱責されたことから退陣した。後の「昭和天皇独白録」によると、「この事件あって以来、
天皇は内閣の上奏するところのものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」とのことである。
政府や軍部の決定に不可を言わぬ「沈黙する天皇」を自らつくりあげていった。

満州を支配していた最大の軍閥、張作霖

(写真は情報処理推進機構の教育用画像素材集より)

<政治>

2月20日、はじめての普通選挙が行われた。これまでは直接国税3円以上納付者だけが選挙権を有していたが、
25才以上の男子全員が選挙権を有することになった。有権者は300万人から1250万人に拡大した。
田中内閣は反対派の選挙運動にも干渉を続けた。結果は政友会219人、民政党217名と大政党が多数当選し、
社会民衆、労働農民、日本労農、民憲の無産政党は8名しか当選しなかったが当局の厳しい取締りの下でよくぞ当選できたとも言える。

<スポーツ>

7月28日、アムステルダム・オリンピック開催。織田幹雄が三段跳び、鶴田義行が200m平泳ぎで優勝した。
人見絹枝は800mで2位となる活躍で大きな話題となった。

11月1日、ラジオ体操の放送開始。

 

昭和4年 1929年            戻る

<時代>

世界大恐慌が日本にも影響を及ぼす。

<経済>

10月24日、ニューヨーク株式市場で大暴落、「暗黒の木曜日」といわれた。世界大恐慌の引きがねとなった。
その後4年間に及び、世界の資本主義国の工業生産総額は44%落ち込み、世界貿易は65%縮小、
倒産が続出し失業者が全世界で5000万人に及んだ。

<政治>

3月5日、旧労農党代議士山本宣治、右翼の暴徒に刺殺される。

7月2日、田中義一内閣総辞職。浜口雄幸内閣発足。
外務 幣原喜重郎 大蔵 井上準之介、幣原は平和協調主義者、井上は金融為替に精通していた人物である。
浜口内閣は@金本位制に復帰し国際経済に足並みをそろえる。そのために金の自由交換制をとり、金解禁を断行した。
A軍縮のためのロンドン条約が成立 B米英との協調外交を進める。などの国論を分ける難題に果敢に取り組んだ。
そのため軍部との対立が激しくなったがこれに動ぜず、軍部の圧力を押さえた最後の内閣となった。

<社会>

5月、小林多喜二「蟹工船」を『戦旗』に発表したが、後に発禁。

8月19日、ドイツの飛行船ツエッペリン号が世界一周の飛行の途上、東京に飛来し、茨城県霞ヶ浦飛行場に着陸。
大歓迎を受けた。

 

昭和5年 1930年            戻る

<時代>

金解禁とロンドン軍縮条約調印の影響が日本社会を揺るがすこととなった。

<軍事>

1月21日、ロンドン軍縮会議。英米日仏伊5ヵ国がイギリスの上院に集まった。日本の全権大使は元首相若槻礼次郎。
主要議題は補助艦の制限であった。日本は対米英、重巡6割潜水艦均等の妥協案を受諾、4月22日軍縮条約調印をしたが
軍部を始め国内に反対の声が広がり、軍部と右翼は帝国主義とファシズムの時代へと歩み出すのである。

<政治>

11月14日、浜口首相東京駅プラットホームで一発の銃弾に倒れる。一命をとりとめたが昭和6年4月辞任、8月26日死去。

<経済>

1月11日、緊縮財政と金解禁。この解禁ショックは予想以上で昭和恐慌と呼ばれる深刻な不況に陥った。
円の価値が向上するに伴い、物価が低落、1月の卸売物価に対して10月は29.2に激減、貿易額も減退し、会社業績が悪化、
株価は額面割れが続出した。しかしこれは日本のみならず世界的傾向であった。

<データ>

学士さまの就職率、昭和5年41.8% 昭和6年40.7% 昭和7年39.6% 内務省社会局調べ。
 映画「大学は出たけれど」小津安二郎監督ヒットする。

無声映画の終わりの時代のヒット作品
映画ポスター:「何が彼女をそうさせたか?」

プロレタリア作家、藤森成吉の人気戯曲を映画化。
高津慶子、小島洋々主演、鈴木重吉監督