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  巽 健一   横浜市在住、
          金城学院大学 元教授(社会学)

紀行文 「新宮駆け足訪問記」
作成 2015年08月21日、登録 2015年11月13日
写真左:大逆事件・大石誠之助宅跡の標石
写真右:丹鶴城跡 (観光協会のHPより借用)
                                                    
 私はめったに旅行をしない人間だが、一昨年の春5月、旧知の人々に会うために横浜
から大阪に赴いた折りに、その前日を利用して、和歌山県の東北端、三重県との県境に
ある新宮市を訪れた。新宮には古くからの有名な神社仏閣や祭礼行事があり、それを目
当てに観光客が集まるのだが、私はそちらの方面には興味がない。私が興味を抱く対象
は、明治から平成にかけてのこの街の歴史である。
 太平洋に面した新宮は、江戸時代から、後背地の山岳地帯にある大森林から切り出し
た木材を熊野川で河口まで運び、港で船積みして江戸、名古屋、大坂などへ運び出す木
材集積拠点として栄えた。この水運は、木材などの物資運搬 のみならず、この地域では
険しい陸路が人の往来を阻んでいたので、人を運ぶのも重要な役割だった。明治になる
と、海の水運が蒸気船中心となり、一層便利になった。そのため、東京や大阪との交流
が一層活発になり、新宮にハイカラな文明開化の文物が流入した。
 こうして流入したハイカラ文明の中に、西洋の社会主義思想があり、それに興味を示
した西洋帰りの地元知識人が開催した社会主義勉強会が当時の官憲の忌避するところと
なり、明治末期の有名な「大逆事件」に際して、この地からも数名の冤罪被害者(死刑
囚や懲役囚)を生むこととなった。この冤罪事件は、新宮の人々にとって積年の痛恨事
として記憶に残り、その90年後の2001(平成13)年に、新宮市議会が「大逆事件
冤罪被害者名誉回復」の議決を行っている。
 一方新宮市には、江戸時代から被差別部落が存在していた。大逆事件の冤罪被害者の
中に、この被差別部落の救済に尽くした人々がいたのだが、その活動はこの事件によっ
て頓挫した。しかしその後、第二次大戦後の部落解放の動きの中で市が同和事業を推進
したことによって、部落の人々が新しい住居環境や就業機会を得ることができ、その状
況は大きく改善されている。そしてこの部落の中から、戦後後生まれの芥川賞作家・中上
健次(故人)が誕生している。
 こういった新宮の近代史を縫って、この地から詩人・佐藤春夫、文化学院の創設者・
西村伊作などの文化人が生まれており、また幸徳秋水、与謝野晶子らの知名人がこの地
を訪れた事跡が残っている。そして近年、このような新宮の歴史や文学を中心テーマに
した夏期市民大学が、生前の中上健次の発意によって新宮市で開催されるようになった。
 私は以前からこのような明治以後の新宮に関心を抱いていたが、この関心を特に掻き
立てたのが、今から10年余前に読んだ一編の小説である。その頃、私は名古屋に住ん
でいた。名古屋には、同姓で名前の発音も同じ「清水ヨシノリ」という文学者が二人い
る。一人はパロディ小説家として有名な清水義範で、もう一人が文芸評論家で短大教授
の清水良典である。良典は義範ほど全国的な知名度はないが、地元ではよく知られてい
て、中日新聞などの文芸欄の常連筆者である。ある日私は、良典が新聞に書いた、幾つ
かの地元同人文芸誌の掲載作品の月評を読んだ。彼はその中で、大逆事件で死刑になっ
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た医師・大石誠之助を描いた小説を取り上げて高く評価していた。そこで私は、その同
人誌の住所を調べ、該当号を取り寄せて読んだ。
 その小説のタイトルを忘れたのだが、評論家の清水良典が評価しただけあって、地味
ながら「佳品」というべき作品だった。大逆事件という歴史的事件を取り上げながら、
事件そのものを大上段に描くのではなく、主人公の心中を抑制の利いた筆致で巧みに描
いている。1910(明治43)年6月に逮捕された大石は翌年1月に東京で死刑に処
せられるのだが、刑の執行が近いことを悟った大石が病弱の妻の悲嘆を思いやって手紙
を書き、「自分の刑死の報を聞いた日にはさすがに食事を摂ることができないと思うが、
翌日か翌々日には少しは物を食べなさい」と諭したのである。このラストが作品の主題
であり、社会主義の勉強会がまさか死刑に繋がるとは思いもしなかった大石が、微動だ
にしない国家権力の重さを跳ね返す術なく次第に諦めの境地に到りながら、後に残す妻
の胸中を思い遣るその心中が私の胸を打った。(細部の記憶が欠落しているので、この
梗概に誤りがあるかも知れず、その旨お断りしておく。)
 この小説を読んでから数年後、私は大石誠之助を主人公とするもう一つ別の小説を読
んだ。それは、小説家・辻原登の『許されざる者』である。辻原は、新宮ではないが紀
伊沿岸部の生まれで、上京して小説家として名を成し、傍ら東大で客員教授として文学
を講じたり、横浜の港の見える丘公園にある「神奈川近代文学館」の館長を務めたりし
ている著名人である。この小説は、上記の心境小説風の作品とは対照的な、華麗な近代
伝奇ロマン小説である。大石誠之助、幸徳秋水、森鴎外、石光真清などの実在の人物を
モデルとし、これに多彩な架空の人物群を配して、明治のモダン地方都市・新宮(小説
では「森宮」)を舞台とする、虚実取り混ぜた色彩豊かな歴史絵巻を繰り広げている。
ただしこの絵巻は、暗鬱な大逆事件が発生する以前の時代を明るく描いたものである。
 この小説の「実」の部分は、アメリカ帰りのハイカラ開業医・大石の社会主義勉強会、
被差別部落民の無料診療、洋食普及のための“太平洋食堂”の開業、熱帯病研究のため
のインド渡航、新宮での遊廓開業への反対運動や、旧新宮藩主・水野家の子息(陸軍将
校)の八甲田事件での遭難などである。そして「虚」の部分は、水野家のもう一人の子
息(彼も陸軍将校)の日露戦争従軍と負傷、戦時下の満州での大石と森鴎外、石光真清
らとの交流、本願寺大谷家の淡路島別邸における大谷家当主と大石の交流などである。
辻原は、これら実の部分と虚の部分を巧みに織りまぜて、明治という近代化時代の明暗
を地方都市・新宮に投影しながら描いている。
 私は、同人文芸誌の作品によって大石誠之助という人物の内面に触れ、次に辻原登の
小説によって大石を取り巻く明治期の新宮という多彩な社会環境に惹かれ、さらにその
延長線上に新宮が輩出した佐藤春夫、西村伊作、中上健次らの知名人を重ね合わせた。
すると、旅行があまり好きではなく腰が重い私の心中に、いつか機会を捉えて新宮を訪
ねてみようという思いが芽生えるようになった。その結果が、このたびの新宮探訪とな
ったのである。
 探訪を試みるに当たって、私は若干の予備知識を仕入れた。といっても、新宮のガイ
ドブックに目を通す程度のことなのだが、ほかに中上健次の小説も少し読んでみた。文
学音痴で特に純文学に弱い私には、この芥川賞作家の小説は“猫に小判”だった。しか
し自伝的要素の強い彼の小説から、彼が生まれ育ち“路地”と呼んでいた被差別部落の
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佇まいや、彼の家族・親族などそこに住む人々の様子を、読み取ることができた。そし
て新宮訪問の直前に、新宮市観光協会に電話して新宮の現況を教えてもらった。大阪行
きのついでに1泊の予定で行う "駆け足探訪”なので、以上のようにして得た情報を最
大限に利用して短時間の訪問スケジュールを組んだのである。
 次に、私が訪れた個所を中心に、新宮市の大雑把な見取図を描いておこう。




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 この見取図は、私が用いている古いワープロ専用機の描画能力の制約によって、見づ
らい不自然な形状になっていることを、お断りしておく。例えばこの図の「N」は、実
際には北ではなく北東を指している。JRの線路の軌跡も、本物は曲線である。こうい
う不備を留保しながら、以下若干の説明を加えておく。
 新宮の市街地は、主としてJR新宮駅の西側に展開している。すぐ西側には、中上健
次が生まれ育った被差別部落(彼の言う「路地」)の跡があり、そこにいま市営アパー
トが立っていて、部落の人々がかなり住んでいる。ここにはもともと「臥龍山」という
山があり、市街地の真ん中に龍が臥した形の緑豊かな山があるという珍しい風景が見ら
れ(昭和期発行の文献にその写真が残っている)、その山麓から中腹にかけて被差別部
落があった。かつてドクトル大石(誠之助の通称)は部落の患者を無料で診察したのだ
が、往診の場合には馬車を用いた。彼の家から部落まで直線距離にして1キロ余なので、
時間はかからなかったようだ。臥龍山は、第二次大戦後何年かたってから掘り崩されて
平地となり、今は跡形もない。中上の生まれ育った路地も、その時に消滅した。
 跡地に立つ市営アパートから南側には、市役所、商工会議所、警察署などの行政区域
がある。その近くに中上健次の親戚が経営する中上建設のビルがあり、何となく新宮市
の行政と戦後の同和運動の密接な関係がうかがえるようである。黒丸(●)で示した「
くまの茶房」は、新宮の歴史とは何の関係もないのだが、今回の探訪の中で私が訪れた
重要な場所なのである。
 市営アパートの北側には、オークワというショッピクセンターをはじめとする商店街
がある。辻原登が描く明治期の新宮には、この北側地区の西寄りにハイカラな商店(そ
の中にはドクトルの太平洋食堂も)、高級料亭、芸者屋、芝居小屋などが軒を並べ、少
し外れた所にはドクトルたちが反対運動を起こした遊廓も設置され、殷賑を極めていた。
しかし今では、この商業・歓楽区域は他の地方都市同様すっかり寂れているようである。
僅かに残る商店街の南寄りに、明神山と浮島の森という“自然”が残っているのが、前
記の臥龍山同様、新宮らしいところである。そして北上して熊野川に突き当たる手前に、
旧新宮藩主・水野家の丹鶴城址がある。
 新宮駅の西側市街地の外れに当たる西側の山並みは「権現山」といって、新宮市にと
って大切な場所なのである。この山の南北に連なる峰々には遊歩道が設けられ、その南
端近くの断崖絶壁の上に世界遺産に指定された「神倉神社」がある。この神社は、毎年
2月6日に行われる「お燈まつり」の舞台となる名所なのだ。権現山の北の外れ、熊野
川に面したところに、これも有名な熊野速玉大社があり、その隣に佐藤春夫記念館があ
る。
 新宮駅の東側は市街地カラーが少ない地域で、直ぐ北(実は北東)は熊野川に、少し
遠い東(実は東南)は太平洋(熊野灘)に、行き当たる。熊野川河畔には、江戸から明
治にかけて木材の積み出しや客船の船着場となった池田港の跡がある。目立つ建物は少
ないが、駅の近くには西村記念館があり、少し離れたところに徐福公園がある。今から
2200年前に、秦の始皇帝の命により不老長寿の薬草を求めて旅立った徐福が新宮に
辿り着き、熊野の山地で有用な薬草を発見したが、帰国せずに新宮に住み着いたとの言
い伝えがあり、後年紀州徳川家が立派な徐福の墓を建立し、そこが公園になっている。
以上がこの見づらい見取り図の概要である。

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 さて、いよいよ5月の連休明けの10日前後の早朝、私は横浜市の西端にある自宅か
ら小田原経由でJR東海道新幹線に乗り込んだ。五月晴れの快晴で気持ちのいい旅日和
である。9時前には名古屋に着き、紀勢本線に乗り換えた。この在来線の特急列車はガ
ラガラだったので、検札に来た車掌さんにノンビリと沿線事情を聞くことができた。工
業都市・四日市を過ぎた辺りから、車窓の左右に田園風景が広がるようになった。田圃
で働く人たちは、田植の準備作業をしているようだった。ところが列車が南下して、三
重県の県庁所在都市・津を過ぎた辺りから、まだ5月初旬だというのに田園にすでに水
が張ってあり、田植寸前の状態だった。私はその風景を見て驚いたのだが、微妙な気温
のちがいがその原因になっているのだろうと、自分を納得させた。そうだとすると、三
重県南部の伊勢湾沿いの地帯はよほど温暖湿潤なのだろう。
 名古屋を出て約1時間40分で、藤堂藩の城下町・松阪に着いた。そして松阪から10
分程度で多気である。列車はここまで真っ直ぐに南下して来たのだが、多気からは南西
に進路を取るようになった。また、車窓から見える風景も著しく変化した。それまでは
専ら平野部を走っていたのだが、次第に森林に囲まれる中を走るようになった。そうす
るうちに、列車は傾斜を登って山岳地帯に分け入った。左右は森林ばかりとなり、家屋
はというと、少しの平地に小さな家々が点在する程度となった。その家屋も、これまで
の平野部の家屋に比して、多少見劣りするように見受けられた。山岳地帯を約1時間10
分走って太平洋(熊野灘)に面した漁港・尾鷲(おわせ)に到着するのだが、その漁港
を目前にして、列車は下り斜面を滑り降りるようにして薄暗い森林地帯から明るい海浜
地帯へと躍り出た。
 尾鷲から、列車は熊野灘の沿岸沿いに若干の迂回路をへて相変わらず南西に向けて走
り続け、約1時間で目指す新宮に到着した。時刻は12時30分で、名古屋から3時間
40分の旅であった。私は車中で昼食の弁当を食べていたので、すぐに新宮探訪に取り
掛かった。私はまず駅構内にある新宮市観光協会を訪れた。協会の事務所は一部屋で、
カウンターの中で4~5人の職員が働いていた。私はカウンター越しに来意を告げ、こ
れまでの電話による情報提供に対するお礼の品(横浜産の菓子類)を手渡し、この日の
午後に訪問すべき場所の最終選定への協力を依頼した。すると協会の事務局長が、
Xさんという30代半ばの女性を私のアドバイザーとして指名してくれた。
 私は直ぐに彼女に、自分の関心ポイントとこの日の夕方までの半日という持ち時間を
提示し、その条件下で訪問すべき場所や訪問経路などについて質問した。すると彼女は、
何カ所かに電話して情報の収集・確認を行い、私にアドバイスしてくれた。電話の相手
には、新宮の地方文化人で佐藤春夫記念館館長の辻本雄一氏もふくまれていた。後に分
かったことだが、辻本氏は元新宮高校教諭で、彼女も同校で氏の薫陶を受けたよう
だった。彼女は私にアドバイスする時、観光協会が発行している地図や案内パンフ
レットを私に示して、それを使いながらテキパキと説明してくれた。この種の情報やア
ドバイスを提示するためには、新宮の歴史や文学に通じている必要があるのだが、その
点でも彼女は適任者だった。
 私は彼女のアドバイスを参考にして、「新宮駆け足探訪」のスケジュールを頭の中で
組み立てて、観光協会の事務局を辞した。この時私は、事務局の人々にあるリクエスト
を行った。それは、私が探訪を終えた後で彼らと懇談できないか、ということである。

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もともと私はあまり旅行をしない人間だが、機会があって地方を訪れる時には、地方都
市や農山村の人々の暮らしや生活意識を知ろうとする習性がある。そこで、現在の新宮
市民の暮らしや生活意識を知り、また新宮の近代史を今の新宮市民がどう受け止めてい
るかを知るために、彼らと懇談したかったのである。しかし、未知の人間の突然の依頼
なので、急遽対応してくれる人は少なく、結局Xさんだけが付き合ってくれることに
なった。
 こうして私が協会を後にしたのは、午後1時を過ぎた頃だった。それから夕方までの
短い時間で、さっき組み立てたスケジュールをこなさなければならない。私はまず、駅
に近い被差別部落跡を訪れることにした。その場所は、前記のとおり、戦後のある時期
に臥龍山を掘り崩して平らにして、市営アパートになっていた。このアパートはかなり
古びていたが、見たところ普通のアパートで、そこに部落の人々が住ん
でいるにせよ、かつての“路地”の面影は消え失せていた。現在、各地の被差別部落の
人々は、住居を移したり、職業を変えたりして、一般社会に溶け込みつつあるのだが、
同じ場所に住んでいても住居形態が変わると、彼らを取り巻く状況が変わるのかも知れ
ないという考えが一瞬頭をよぎったが、その当否は今も分からない。変哲もないアパー
トの周囲をうろついていると、ドクトル大石たち大逆事件冤罪被害者の顕彰碑が立って
いるのに気づいた。それを見た私は、遥かな明治の昔の大石たちと部落の人々の交流が、
いまなお新宮の人々の記憶に残っていて、この顕彰碑の建設につながったのだろうと思
った。
 次に向かったのが、市内に残る貴重な自然遺産というべき「浮島の森」である。その
場所は、市営アパートから北西に向かって徒歩10分程度のところにあった。この日は
平日(金曜日)だったが、昼下がりの明るい陽光の中、市内に人影がない。この周辺が
住宅地で繁華街ではないからか、辻原登の小説に描かれた明治末期の新宮の沸き立っよ
うな熱気や活気とは程遠い、ひっそりした佇まいだった。私は浮島の森の手前で、一軒
の喫茶店を見つけて入ってみた。トイレを借りたかったのだが、この店で新宮の人々の
表情を探ってみたいという思惑もあったのだ。店に入ると、カウンターの中のおばさん
と、壁際の客席に座っている2~3人の女性が一団となって喋り合っていた。ただし客
席の女性たちは、本当の客なのか、それとも近所の人々が気楽に遊びに来ているのか、
私には分からなかった。しかしそれは、いかにも地方都市の喫茶店らしい風景だった。
 喫茶店を出て3~4分歩くと、浮島の森の入り口だった。森を背景にして受け付けの
小さな建物があり、その前に少し広目の空き地があって、電話ボックスが設置されてい
た。受け付けでは、入場券を売っており、また浮島の森の絵葉書などの土産物や案内図
なども売っていた。受け付けの建物は陸地の上だが、そこから中に入ると沼の上だった。
 私は、沼の上に設置された木製の橋の上を歩きはじめた。実は「浮島」というのは、
植物(樹木、草木)が枯死して堆積物となったものが積み重なって島となり、沼の上に
浮かんでいるのを指す言葉なのだ。土で出来た普通の島とちがって、浮島は沼の底まで
届かず、沼の中を浮遊しているのだが、植物の堆積物とはいえ長年積み重なって相当な
重量になっているので、静かな沼の中でほとんど動かず静止しているのである。私は橋
を渡って島の上に辿り着いた。この島は土のような堅固な基礎がなく、腐食した枯れ葉
などのブヨブヨした成分で成り立っているので、直接足で踏み歩くのが難しいため、島

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の上に橋に続く板敷きの遊歩道があり、入場者はその道を歩くのである。この日は平日
だったからか、私の前後には入場者が3~4人いるだけで、ひっそりとしていた。
 この浮島は主な組成成分が枯死した植物なので、5月という季節の中でも、島の表面
近くには生命の輝きを示す緑色は見られず、薄茶色の古色蒼然たる色彩が全体を支配し
ていた。ところが、そのブヨブヨした表面の上に、枯死植物の養分を吸い取って新しい
生命体である樹木が成長しているのである。だから、頭を上げて上を見ると、緑の木々
が目に入るのだ。私はそれを見て、この場所を「死」と「生」が交じり合う ー正確には
、「死」が「生」に転化するー 異空間だと感じたのである。そして島の面積が
結構大きいので、この木々の集合も森といえるほどの大きさになっている。浮島を浮か
べる沼は周囲をコンクリートの塀で囲われていて、外からは鬱蒼たる森の部分だけが見
え、その森を育てている下部構造は見えない。こういった状況から、この場所を「浮島
の森」と呼ぶのは当を得ているのである。
 浮島の森が市街地にあるといっても、森の周囲はまばらに住宅が散在している程度で、
閑静である。しかし、浮島の上に立って空を眺めた時、塀の外の二階建ての家が目に入
ると、急に今まで眺めていた異空間に実空間が喰い込んで来たように思えて、何となく
違和感を感じた。こうして浮島を一周し、受け付けから外へ出たのだが、私は浮島がい
つの頃から形成されはじめたのかを聞くのを忘れ、その疑問はその後そのままになって
いる。それはともかく、この「浮島の森」は世界でも珍しい自然現象のようであり、北
の大森林地帯の霊気と南の太平洋の黒潮がこの新宮で交合して生まれた奇観なのかも知
れない。
 浮島の森を出ると、時刻は午後2時半になっていた。先程の約束で、午後5時には観
光協会に戻ってXさんと再会しなければならない。すると、私の持ち時間は後2時間
半しかない。私はこの後の訪問先をタクシーでまわるしかないと思い、電話ボックスで
駅前のタクシーを呼んだ。
 タクシーに乗り込んだ私は、最初に南下して新宮高校を見に行った。新宮高校は私が
興味を抱く新宮の近代史とは何の関係もないのだが、戦後の一時期野球が強くて何度も
甲子園に出場し、その中から後に当時の高校生としては桁外れの高給で阪神タイガース
に入団した前岡投手を生んでいる(残念ながらプロでは活躍できなかったが)。また甲
子園には縁がなかったが、昭和20年代に阪神タイガースで活躍した石垣捕手や、最近
まで阪神タイガースやメジャー・リーグで活躍した薮投手がいる。野球好きの私として
は野球部の練習場になったこの高校の校庭を、そして中上健次ほかの新宮の知名人のほ
とんどが通学したこの高校の校舎を、一目見ておきたかったのである。タクシーで通り
過ぎながら一瞥した新宮高校は、バックネットと打球が道路に飛び出すのを防ぐネット
を備えた校庭が広く、校舎も大きかったが、ほかに特に印象に残るものはなかった。
 次にタクシーを反転させて、西側市街地の西端を北へ向かう大きな道路(国道42号
線)を真っ直ぐに北上した。車窓の左側(西側)には神倉神社を中腹に抱え込んだ権現
山があるのだが、とても山に登る時間はなく、素通りした。そこから少し走ったところ
に、浄泉寺がある。この寺は、明治末期に大逆事件でドクトル大石とともに逮捕され、
無期懲役で服役中に獄中で自殺した僧侶・高木顕明が、住職を務めていた。顕明は大石
らと社会主義の勉強会を催す一方、他の寺院が嫌がる被差別部落民を檀家として引き受
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け、彼らを支援していた。
 私はタクシーを降りて境内に入ってみた。質素で何の変哲もない寺だが、そこである
発見をした。石碑のようなものに、大正時代に京都の華族の一人(女性名義)がこの寺
に幾ばくかの寄進をしたことが記されていたのである。浄泉寺は真宗大谷派に所属して
いたが、大谷派は顕明が逮捕されると直ちに住職の地位を剥奪し、顕明の家族を寺から
追放し、別の僧侶を招いて住職に就けた。故に大正時代には別の住職がこの寺を守って
いたのだが、俗な言い方をすれば「ケチの付いた田舎寺」に身分の高い貴人がわざわざ
寄進をするのが、ちょっと意外な気がしたのである。この貴人は、もしかすると無実の
罪を着せられた顕明や浄泉寺に対して同情的だったのか、それともそんな心境とは無縁
の単なる大谷派とのかかわりからの寄進だったのか、などと無い知恵を捻り出しながら
考えるのであった(もちろん正解は今も得ていない)。
 浄泉寺を出た私は、タクシーを近くの町角に待たせて、10分あまり付近を歩きまわ
った。その近くは静かなもしくは寂れた住宅地で、旧新宮藩主・水野家が丹鶴城のほか
に市街地に構えていた下屋敷や水野家の菩提寺があり、その周囲には武家屋敷の名残り
を止めた質素な住宅があった。それらの建物を一瞥してタクシーに戻った私は、さらに
北上して右折し、浮島の森の北に位置する明神山を車窓から眺めた。辻原の小説に何度
か登場するこの明神山は、市街地の中に突如現れた小さな山だった。私はすぐにタクシ
ーを国道に戻して北上した。その辺りから、大王地という往年の繁華街(花街)に入っ
たのだが、今では古びた飲み屋が軒を並べるだけで、かなり寂れた感じだった。市内の
他の繁華街を見ていないのだが、これが今の新宮を象徴しているのかと少し淋しかった。
 さらに国道を北上すると、熊野川に掛かる橋(熊野川大橋)の左側に熊野速玉大社が
あり、私はタクシーを降り、神社の境内に少しだけ立ち入った。この神社は昔から、
いわゆる熊野三山(本宮、新宮、那智)を統括する熊野別当の本拠であり、熊野地方で
は重要な神社である。そう思って社殿を眺めると、赤を基調色として美しい威容を示し
ていた。この神社のすぐ右側に佐藤春夫記念館があるのだが、見学する時間がないので、
建物だけを眺めてタクシーに戻った。
 そこから国道に戻る途中の道路脇に、ドクトル大石の住居跡や彼が開いていた太平洋
食堂の跡を示す石の標柱が立っていた。私は、その辺りから国道を離れて、タクシーを
熊野川沿いに走らせた。目標は、JR紀勢線に接するようにして立つ丹鶴城址である。
この城へ行くためには、川沿いの小高い住宅地を通ることになる。その時私は、
車窓から「玉置」という表札が掛かった立派な邸宅に気づいた。ドクトル大石やその甥
の西村伊作は、熊野川上流の森林地帯で山林王といわれた玉置家の縁戚である。私が見
たのがその玉置家らしいので、運転手に確認したところ、そうだと言う。
 玉置家を通り過ぎて間もなく丹鶴城址に到着した。城は川沿いの高台にあり、私はタ
クシーを待たせておいて石段の迂回路を何段も登った。天守閣などの建物は明治維新の
際に破壊されたようだが、城壁などは残っていて、往時の城の姿を偲ぶことができた。
この城は、四方のうち北東側と北西側の二万が熊野川に面するように設計されていて、
眼下遥かな熊野川の流れを見下ろしていると、いかにも攻めるに難く守るに易い堅城だ
と感じた。さらに、川に面しているだけに水の便などもよく、城内の井戸の水が涸れる
こともなく、何ヶ月もの龍城に耐えることができそうだと思った。目を転じて遥か東南
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の熊野灘に至るまで広がる平野部や新宮市内、そして新宮市内を越えた西側の権現山な
どを見渡すと、城を中心にこの地域の全貌が晴天の春景の中に浮かび上がるのであった。
 この城の沿革を顧みると、城は江戸時代を通じて新宮藩主・水野家の居城であり、江
戸初期に水野家がこの地に封じられた時に改めて建造したものである。その後新宮藩が
参加した戦争は、幕末の長州征伐のみである。この時新宮藩は、幕府軍に加わって長州
勢を打ち破ったのだが、他の戦線で幕府軍が総崩れとなり、引き揚げざるを得なかった。
新宮藩ではこれ以外には戦争がなかったので、この城が攻められることもなく、その堅
城ぶりを発拝する機会はなかったという。
 この日私が登った城壁は水野氏が建造したものだが、城のそもそもの歴史はもっと古
い。城の名前が「丹鶴城」だというのは、平安末期に源氏の縁戚に当たり、女傑といわ
れた丹鶴姫が建てたことに由来する。この人の弟が、有名な新宮十郎行家である。こう
いう事跡から、当時京の都と熊野の地が熊野信仰などを通じて近い関係にあったことが
窺える。丹鶴城はその後何度も建て直されたと思われるが、後に三河から来た水野氏が
新しく建てた城にこの旧名をつけたのは、地元の新宮の人々の気持ちを慮ったからたで
あろう。
 こんなことを考えながら眺望のよい丹鶴城を降りてタクシーに戻った時、時刻は午後
4時を過ぎ、Xさんとの約束の刻限が迫っていたので、この後は本当に駆け足で急ぐ
こととなった。次に向かったのは、城から熊野川沿いに少し下流こ向ふったところにあ
る池田港である。私はまたタクシーを降りて、河畔の土手の上に登った。そこには、か
つて熊野川の上流から運んだ木材を船に積んで日本各地に送り出したり、ドクトル大石
がアメリカ留学を終えて東京経由で客船から降り立ったりした港の跡があった。しかし、
もはや桟橋などはなくなっており、ただここに池田港があったという立て札があるのみ
であった。
 土手を降りてタクシーに戻ってからは、時間が切迫していたので、車窓から景色を眺
めるだけにして、一路新宮駅まで急ぐことにした。新宮の商店街を見てみたいと思い、
ショッピング・センターのオークワの近くまで行ったのだが、私のリクエストがうまく
運転手に通じなかったので、オークワの建物の外側を通っただけで、内側から続いてい
るはずの商店街を覗くことができなかった。タクシーはそこから駅寄りに走って、線路
脇の狭い道で西村記念館の前を通過した。ここは、かつて叔父のドクトル大石と親交が
あり、後に東京で文化学院を創設した西村伊作の旧居を記念館にしたものである。ここ
にも立ち寄る時間がなかったので、車窓から眺めながら通り過ぎたのだが、意外に古色
蒼然とした冴えない洋館だった。伊作は富裕な一族の生まれだったので、もう少し見栄
えのよい住居に住んだのではないかと勝手に想像していたのだが、おそらく大正初期に
建てられたものだけに、当初はハイカラな立派な洋館でも、その後の年月の経過には逆
らえなかったのだろう。
 西村記念館から駅までは僅かな距離だったが、少し迂回して徐福公園の前を通過した。
いかにも中華風の朱色と黄色の色彩で飾られた建造物をちらりと眺めて、タクシーを駅
に戻した。Xさんとの再会の予定時刻は午後5時だったが、20分ほど時間が余った
ので、少し歩いてみることにした。さっき見過ごしたオークワ周辺の商店街まで脚を伸
ばすだけの時間がなかったので、最初に訪れた被差別部落跡を通り越して市役所や商工

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会議所などが立ち並ぶ一画を歩いてみた。いかにも新宮の中心的行政機関の所在地らし
く、整備された閑静な場所だったが、なにぶん小都市のことゆえ僅かな機関と狭小な区
画があるに過ぎなかった。そう思いながらふと横を見ると、「中上建設」と表示のある
二階建てのビルが目に止まった。私は中上健次の小説をいくつか読んでいたので、それ
が健次の親戚(たぶん叔父さん)の会社だということが、直ぐに分かった。
 ほぼ約束の時間になったので、私は駅に戻った。普通の町では駅周辺に商店街がある
ものだが、前記のとおり新宮では商店街が駅から離れているので、駅前は混み合ってお
らず、広々としている。広い道路がゆったりと交差し、町角に由緒ありげな立派な料亭
が姿を見せていて、日本の地方都市の多くと同様、裏寂れた新宮の姿ばかりを目にして
来た私をホッとした気持ちにさせてくれた。そして予定どおり、午後5時を少し過ぎた
頃、私は店仕舞いした観光協会の前でXさんと再会した。
 Xさんは「これから行く喫茶店に、懇談に応じてくれる人が何人か来てくれること
になっています」と言った。これは先刻別れ際に、私が彼女に「協会職員以外で懇談に
応じてくれる人がいたら、お目にかかりたい」と頼んでいたことに対する返答なのであ
る。彼女は続けて、「その喫茶店は新宮過激派の巣窟と言われているのですが、構いま
せんか?」と言った。私は胸中で‘望むところ”と思いながら、「僕は明日大阪の過激
派と会うことになっているのだから、今日新宮の過激派と会うのは一向に構わないよ」
と言った。
 実は、私はこの翌日大阪に着いてから、いくつかのグループに会う予定があるのだが、
そのうちの一つがある高校の先生とその彼女の二人組だった。この先生は60歳過ぎの
日本史の先生で、その彼女というのは以前私が大阪の実家の家財整理と取り壊しのため
に何度か帰阪した時に利用していたお好み焼き屋のママさんである。二人ともかつては
既婚者だったが、この時点ではお互いに独身で付き合っていた。先生は大阪府の公立高
校に勤務していたが、定年退職後、他の公立高校の非常勤講師を務めている。先生は現
役時代から、入学式・卒業式での君が代斉唱を拒否して起立しないという原則を貫いて
おり、非常勤になってもその姿勢は変わらないという信念の人である。私がXさんに
“大阪の過激派”と言ったのは、この先生のことなのだ。
 彼女の言う‘新宮過激派の巣窟”は「くまの茶房」という喫茶店で、新宮商工会議所
を通り越して大きな道路に面したところにあった。それ故、私がさっき歩いた区域をも
う一度辿りながら10分余歩くことになった。その間歩きながら、私も彼女もお互いに
自己紹介をした。それによると、彼女は新宮高校を卒業後、東京の昭和女子大短大部の
日本文学科に進学し、近代日本文学を学んだという。さっき歴史や文学の知識が必要な
新宮観光案内をテキパキとこなす彼女に感心したのだが、この履歴を知って私は合点が
行った。
 その後彼女は東京に止まって、さる特殊法人に勤務した。仕事は無味乾燥だったが、
給料がよかったので、好きなコンサートを楽しむなど青春を謳歌したようであった。し
かし何年かたって、実家の母上が一人になるという事態に直面し、郷里に戻って今の仕
事に就いたという。東京の仕事と比べると、自分の能力が生かせる楽しい仕事だが、収
入は半減した。新宮市観光協会は市の外郭団体だが、事務局長をふくむ全職員が非正規
雇用なのである。彼女によれば、新宮で正規雇用が守られているのは市役所か関西電力
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ぐらいだという。私はこれを聞いて、地方経済の想像以上の惨状に愕然とした。紹介が
遅れたが、30代半ばに見える彼女は、がっしりした長身で纏まった容貌の知性的な女
性である。
 こうして私たちが親しく会話を交わしているうちに、新宮過激派の巣窟「くまの茶房」
に到着した。大きな道路に面した小奇麗な喫茶店である。中に入ると、店内は縦長のつ
くりになっていて、入口に向かって左側にカウンターがあり、中に女性が二人いた。カ
ウンターを前にして6~7個の丸椅子があり、そのうちの一つに浅黒い容貌と引き締っ
た体躯の40代と覚しき男性が座って、黙ってコーヒーを飲んでいた。入口に向かって
右側に4人掛けの机と椅子のセットが4つか5つぐらい、入口に平行に並んでいた。4
人掛けの方には、二人の客が離れ離れに座っていた。そのうちの一人が、Xさんの呼
び掛けに応じて来てくれていた地元の女性活動家・Pさんであった。
 私たちはPさんのテーブルに座り込んで、飲み物を飲みながら話しはじめた。すると、
しばらくして丸椅子に腰掛けていた男性が店を出て行った。後でXさんから聞いたの
だが、彼が例の中上建設の現社長だという。私の僅かな知識から推測するに、彼はおそ
らく中上健次の叔父さんの息子(つまり健次の従兄弟)で、父親が設立した会社を継いだも
のと思われる。それにしても、被差別部落の近くの喫茶店でその部落出身の健次の小説
に登場する親族の一人で、もともと生業にしていた土建関係の仕事を同和事業を梃子に
して拡大し設立した建設会社の社長に出くわすとは、まるで絵に描いたような成り行き
だと驚くと同時に、この幸運をもたらしたXさんの絶妙なセッティングに感謝した。
 その後少したって、今度はカウンターの中にいた若い女性の方が店を出て行った。後
でXさんが教えてくれたのだが、彼女は高校生に英語を教えるために出掛けたのだと
いう(個人レッスンなのか塾溝師なのかは不明)。彼女はXさんと同年輩ぐらいで、
背丈はやや低く、クリッとした知的な風貌の女性である。Xさん同様、東京に出て、
中央大学の法学部を卒業したという。「中大法学部卒」と聞いて、私はびっくりした。
彼女は、凄いエリートなのだ。昨今の受験事情から見ると、中央大学自体がなかなかの
難関校なのだが、中でも法学部は超難関である。戦前からの伝統を受け継いで法律家志
望の学生が多いことで有名だが、彼らは一般企業に就職しても極めて優秀である。その
ことは、広告会社の電通に勤めていた私がよく知っている。おそらく彼女が卒業した新
宮高校でも、その秀才ぶりは有名だったことだろう。しかしそんな彼女でも、新宮に戻
ると腕を振るう職場がなく、喫茶店と英語教師のアルバイトしか仕事がないのだ。私は
ここでも、深刻な地方経済の落ち込みを実感したのである。それはともかく、
40代と見受けられるPさんは明治の大逆事件などに対する関心は強くないようで、主と
して現在のこの地域の地方政治・行政に関する話題が中心となった。
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 Pさんと話しているうちに、60歳ぐらいの色浅黒く長身の男性が店に入って来て、
私たちのテーブルに座った。このQ氏も、Xさんの招集に応じて来てくれたのだ。彼
が渡してくれた名刺を見て、私は驚いた。「志を継ぐ」と大書して、氏名・住所・電話
番号が記入してあるだけで、普通の名刺にあるような職業がないのだ。私がその点につ
いて質問すると、仕事は肥料卸売業だが開店休業状態なので書かない、というのである。
もう歳も歳だし、仕事は遊び半分ということかも知れないが、山が海に迫って農業に適
した平地が少ない紀伊半島沿岸部の農業不振が、いま一層深刻化しているのかも知れな
い。「志を継ぐ」は、いうまでもなくドクトル大石ら冤罪組の志を継ぐという意味であ
る。Q氏の風貌は、いかにも過激派らしく、やや狷介な感じである。これも後からX
さんに聞いたのだが、彼は東京理科大の中退者だという。
 Qさんは「志を継ぐ」人だから、大逆事件の関連について色々と話してくれた。前記
のとおり、2001(平成13)年に新宮市議会が「大逆事件菟罪被害者名誉回復」の
議決を行い、2011(平成23)年には新宮市の主催で「大逆事件百年フォーラム」
が、翌2012(平成24)年には「シンポジウム・大逆事件101年目からのステッ
プ」が、それぞれ開催され、後者には大逆事件の首謀者とされた幸徳秋水の出身地・高
知県四万十市の市長が参加している。このような動きから、私は現在の新宮市民の間で
大逆事件に対する関心が高まっていると思っていたのだが、Q氏はそれを否定した。こ
れらの動きは、その時々の新宮を巡る地方政治の風向きに左右され、冤罪被害者に対す
る同情派が優勢になると政治・行政テーマとして取り上げられるが、彼らが劣勢になる
と下火になる、ということだった。また一般市民の大逆事件に対する関心は低く、Q氏
ら過激派は新宮では少数派だということだった。
 Q氏が参加してから40分ぐらいで、私たちの懇談は終わった。いずれにせよ急に集
まってもらったので、それ以上長く時間を取ることはできなかったかも知れないが、私
には少し後悔があった。私はPさんやQ氏にコーヒーを振る舞っただけだったが、気を
利かせてビールや摘まみを取って場を盛り上げていたら、もう少し話が弾んだのにと後
悔した。でも、それは後の祭りである。彼らが出て行った後、私は店の窓際に置いてあ
つたいくつかのパンフレット類を手に取った。いかにも新宮過激派の巣窟らしく、それ
らのパンフレットの大半が大逆事件やドクトル大石の関連であり、観光案内の類は少な
かった。その中に、9月に東京・高円寺で開催されるドクトル大石をテーマにした演劇
のビラがあった。私はそれを見に行こうと思って1枚持ち帰った。
 店を出る直前、Xさんが4人掛けの席を1人で占領してビールを飲んでいる小柄な
老人を紹介してくれた。彼はいかにも人の良さそうな80代と覚しき人物で、笑いなが
ら私に向かって小旗を振った。側からXさんが説明してくれたところによると、彼は
この日関西電力新宮支店の前で反原発デモを行った帰途だという。彼が持っている小旗
は、デモで使ったものらしい。デモ参加者はごく少数のようだったが、その少数の中に
敢えて加わるこの老人は、やはり新宮過激派の-味なのだろう。
 反原発デモといえば、私も東京で参加していた。その発端は、福島原発事故発生の翌
年、つまりこの時点の前年、2012(平成24)年7月に代々木公園で開催され、大
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江健三郎や坂本龍一が登壇し、数万人が集合した「反原発集会」に参加した経験である。
この時、集会終了後デモ行進が行われ、私は乳母車を引いた若い母親や外人男性などと
一緒に、炎天下を行進した。その後私は、毎週金曜日の夜に会社帰りのサラリーマンな
ども参加する反原発デモに、時々参加するようになった。(そういえば、この日も金曜
日なので、新宮でも相呼応して金曜日にデモを行っているのだと気づいた。)東京の反
原発デモは、最近はさすがに少数になっているが(反安倍デモの方が盛大)、この頃は
数千人が国会議事堂前に集まり、歌ったり踊ったりする若者もいて、たいへん賑やかだ
った。
 そういう体験をしていた私は、この老人が参加するデモはおそらく東京とちがって一
般市民から孤立した状態で行われているのだろうと気の毒に思いながら、「私も東京で
で反原発デモに参加しています」と言って彼と握手し、店を出た。これも後から気づい
たのだが、少数デモの帰途一人でビールを飲んでいる孤独な老人に連帯のエールを送る
ために、店内に止まって老人の話相手になり、新宮の反原発運動の実態を教えてもらえ
ばよかったのだ。しかし、全ては後の祭りである。
 こうして、過激派との懇談が私の思惑よりも早く終わってしまったので、店を出た時
まだ明るかった。たぶん6時半ごろだったと思う。そこで私は、宿泊予約を入れている
駅裏の「ホテル新宮ステーション」のレストランにXさんを招待することにした。独
身で週末の時間が自由になる彼女は、喜んでホテルに来てくれた。新宮は古い町で、「
お燈まつり」やその他のイベント、さらに「熊野川下り」などに、観光客が集まるので、
高級な和風旅館はあるようだが、洋風ホテルはこのホテルだけである。それなのに、私
たちが足を踏み入れたホテルのレストランは、週末・金曜日の夜にしては閑散としてい
た。少数の宿泊客らしい人々のほかは、ホテルに相応しいといえないラフな服装の若者
たち(しかし不良っぽくはない)が騒ぎながらビールを飲んでいるだけだった。
 席に着いた私たちは、アルコール好きの彼女がビールを、アルコールを止めた私がウ
一口ン茶を飲みながら、数種類の料理に手をつけて、雑談を楽しんだ。時間もたっぶり
あったので、色々な話題が飛び交ったのだが、最も記憶に残っているのがプロ野球の阪
神タイガースの話題である。何しろ、彼女が熱烈なタイガース・ファンだったのだ。関
西圏の人はタイガース・ファンが多いのだが、その圏内に入る和歌山県人にも当然タイ
ガース・ファンが多い。そして、出身校の新宮高校を卒業してプロ球界に入った選手た
ち(石垣、前岡、薮)がいずれもタイガースに入団したことから、彼女がタイガース・
ファンであるのは必然だといえよう。なお、この席で分かったことだが、薮投手はクラ
スはちがったが彼女の同級生で、高校時代はあまり目立たない生徒だったという。
 彼女は毎年1~2回、JRで片道4時間かけて1泊の計画で大阪に出掛け、甲子園球
場でタイガースの試合を見て、後は久しぶりに都会の空気を楽しむのだという。そして、
ちょうどこの1週間前の土日に大阪へ行き、入団したばかりの新人・藤浪投手の勝ちゲ
ームを見ることができたので、ご機嫌だった。私は彼女ほど熱烈なタイガース・ファン
ではないが、もともと大阪出身で、子供の頃からタイガースを応援していたので、タイ
ガースを論ずる資格は十分である。そこで、タイガース論に花が咲いたのはいうまでも
ない。
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 私たち二人は僅か半日前に知り合ったばかりなのに、まるで旧知の友のように、飲み
(Xさんだけ)、かつ食い、かつ盛大に話し合った。そして夜も更けた10時頃に、
彼女は帰って行った。翌朝8時半頃の新宮始発・大阪天王寺行き特急列車に乗るために、
8時過ぎに新宮駅に行くと、思いがけず昨夜別れたばかりのXさんが新宮土産の品を
持って私を見送りに釆てくれていた。観光協会の出勤時刻は9時なので、私は恐縮した
が嬉しかった。かくして、プラットフォームで手を振る彼女と別れ、私は一路、“
大阪の過激派”が待つ大阪へと向かった。
 列車が新宮を出て直ぐに小雨が降り始めた。私はガラガラの車内で進行方向の向かっ
て左側の座席に座っていたので、左手に間近かに太平洋が見えるのだが、南にけぶる海
面に白い波頭が立っていた。昨日の昼近くにJRの列車で三重の山岳地帯から太平洋沿
岸の尾鷲に下って行った時には、晴天の下に海面が青く光輝いていたが、曇天のこの朝、
海面はただ薄黒かった。こういう景色の中、列車は潮岬を遠望する串本駅までは南西に
向けて、そこから和歌山までは北西に向けて、そして和歌山からは真っ直ぐに北上して、
大阪天王寺に午後1時前に到着した。
 その日の夜まで、新宮を駆け足探訪したのと同じように、私は例の大阪の過激派やそ
の他のグループの人たちと駆け足懇談を交わして、夜遅く横浜に帰着した。横浜に戻っ
た私は、その後Xさんの仲介で、新宮でお目にかかれなかった彼女の恩師・辻本雄一
氏に質問状を送らせていただいた。そして、辻本氏から丁重な回答をいただくことがで
きた。その中で重要なポイントが二つあった。
 第1点は、大逆事件関連である。新宮を訪れた時にくまの茶房でQ氏から、新宮市の
政治・行政関係者の中で大逆事件やドクトル大石に対する評価が定まっているわけでは
ない、との指摘を受けていたが、さらに辻本氏によると、この前年(2012年)に新
宮市主催の大逆事件シンポジウムに四万十市の市長が参加してくれたが、その後直ぐに
市長が交代するとこの提携関係は消滅したという。また新宮市自体の政治勢力の動向を
見ても、菟罪被害者擁護派がいつまで優勢を保つか分からないという。
 第2点は、部落問題関連である。私は、部落問題解決のために新宮市の行政が同和事
業関連の土建事業で部落民を支援したという想定をしており(まったくの素人考え)、
その想定が新宮で中上建設の社屋を見て一層強まったのだが、辻本氏は事態はそれほど
単純ではないという。土建事業が地元の部落民や部落出身者の土建会社をある程度潤し
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たのは事実だが、利益の多くは大都会のゼネコンの懐に入ったという。まるで、今般の
東日本大震災の復興事業のケースと同様だと思い、私も変に納得してしまった。
 私は、そのほかに興味本位の不真面目な質問を交えていたのだが、辻本氏はそれらに
対しても親切に答えてくださった。その中で、新宮高校野球都関連のみを紹介しておく。
(1)問「戦後の一時期、新宮高校野球部がなぜ甲子園で大活躍できたのですか?」
   答「その頃監督に就任した古角(こすみ)氏の指導がよかったから」
 (野球好きの私はこの回答を見て、直ぐに納得することができた。古角氏は、戦前
  甲子園で活躍した名選手である。最近、戦後70周年と高校野球100周年が重な
  って、「戦火に散った野球選手たち」というふうな番組や記事が数多く現れた。そ
  の中で必ず出て来るのが、和歌山県の旧制・海草中学(現・向陽高校)の嶋投手で
  ある。彼は1939(昭和14)年の夏の甲子園で5試合を一人で投げ抜き、すべ
  て完封、つまり1点も与えずに母校を優勝に導いた左腕投手である。しかも、準決
  勝と決勝ではノーヒット・ノーランで勝っている。この成績は前人未到で、今後も
  この記録が破られることはない、といわれている。また嶋投手が卒業した翌年も、
  戦後プロ野球で活躍した真田投手がチームを牽引して連続優勝を成し遂げている。
  そして嶋投手は、卒業後明治大学に入学したが、太平洋戦争勃発のため東京6大学
  野球が中止となり、学徒動員で海軍に入隊し、惜しくも終戦の3カ月前に戦死した。
  古角氏は海草中学が優勝した時の外野手で、嶋投手と同じく明治大学に進学したが、
  生き残って戦後を迎え、復活した都市対抗野球の「オール大阪」で、のちにプロ入
  りした別当、笠原らの名選手とともに1947(昭和22)年に優勝を成し遂げて
  いる。たしかセンターを守り、打順は6番だった。私は彼のその後を知らなかった
  のだが、彼が新宮高校の監督になったのなら、そのチームが甲子園で活躍しても不
  思議ではない。)
(2)問「新宮高校時代に甲子園で大活躍し、嘱望されてプロ入りして成功できなかっ
     た前岡投手のその後は?」
   答「彼は阪神タイガースから中日ドラゴンズにトレードされ、中日退団後は三重
     県某市のボーリング場の支配人となり、今も健在です」
(3)問「戦後の一時期、阪神タイガースの正捕手として活躍した石垣選手は、その後
     地方議会の議員になったと聞きましたが、新宮市の市会議員だったのですか?」
            
   答「大阪府高槻市の市会議員です」
 私は辻本氏のご厚意に対して、感謝の手紙と謝礼の粗菓を送ったのだが、氏から丁重
な礼状が届いて恐縮した。
 そして9月になり、くまの茶房で入手したビラに書いてあったドクトル大石をテーマ
とする演劇が上演される日が近づいて来た。Xさんの情報によると、東京で上演され
るこの演劇を見るための1泊観劇ツアーが新宮で企画され、Q氏が参加するとのことだ
った。私は、Q氏が観劇する同じ日に見に行ってもう一度彼と再会し、できれば酒食を
共にして歓談したいと思った。しかし、この件はうまく運ばず、私は別の日に高円寺に
見に行った。この芝居はコメディ・タッチで、なかなかの出来ばえであり、観客の入り
もよかった。ドクトル大石が冤罪に問われる以前の太平洋食堂を舞台にしたストーリー

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であり、大石を悲劇の人として扱うものではなかった。すでに故・井上ひさしが小林多
喜二をテーマにしたコメディを発表しているが、この芝居も同じラインに沿うものであ
ろう。
 私の新宮探訪は、準備不足の上、半日という駆け足スケジュールだったので、きわめ
て不十分なものだった。しかしそれでも、少しは新宮が分かったような気分になれたの
は、観光協会職員のXさんの適切なアドバイスや資料提供と、彼女がセットして
くれた新宮の人々からの生の情報のおかげである。その彼女に対する謝意を込めて、
「今度上京する機会があれば、歓待するから報せてください」と言ってあるのだが、ま
だ報せはない。
 あの時彼女が熱烈応援していた阪神タイガースの藤浪投手は、今年は一昨年、昨年に
も増して素晴らしい成績で、本日の時点で10勝6敗でセ・リーグの三振奪取王であり、
首位に立つチームを支えて奮闘している。彼の奮闘が実を結んで、タイガースがリーグ
優勝や日本一を勝ち取ることができ、彼女の歓声が甲子園の空に響き渡る日が来ること
を、私は切に祈っている。
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