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   巽 健一  随筆  「イギリス民謡『庭の千草』」

「ビルマの竪琴」を見て、日本の音楽教育を想う

(2015.04.03)
 (株)電通を経て
金城学院大学 元教授
社会学

横浜市在住
 
 先日、テレビで映画『ビルマの竪琴』を見た。.この原作は、第2次大戦後間もなく竹山道男氏(ドイツ文学者)が小説形式で発表したもので、その後2回、映画化されている。映画はこのとき初めて見たのだが、有名なこの物語の大筋だけは知っていた。私と同年輩の人々の中には、同様にこの筋書きを知っている人が多いと思うが、念のために梗概を記しておく。
 
 日本の敗戦が間近になったころ、日本陸軍は頽勢を挽回すべくビルマ(現・ミャンマー)戦線において悪名高いインパール作戦を展開する。この作戦は、日本軍と敵の英軍の戦力比較や日本軍の補給の困難度から見て、成功の確率が極めて低い無理筋の戦いであった。その結果、敵地に進撃した日本軍は無残な敗北を喫し、悲惨な逃避行を余儀なくされた。その中に、主人公・水島上等兵が属する小隊があった。この小隊の隊長は職業軍人ではなく、音楽学校出身の徴兵された将校だった。

 彼は絶望的になって士気阻喪する部下を励ますために、全員で皆が知っている歌を合唱することを提案し、自ら合唱の指揮を取った。水島は自分で作ったビルマの竪琴を弾くのが得意で、敗走中も竪琴を手放さなかったので、いつも合唱の伴奏を担当した。

この小隊がようやくビルマ領からタイ領へ逃げ込もうとした直前に、突如イギリスの大軍に遭遇してしまう。隊長は応戦準備をする時間稼ぎが必要だと判断し、敵襲に気づいていないフリを装うために小隊の全員に合唱を命じた。そのとき選んだ曲が、イギリス民謡「埴生の宿」だった。すると、英軍の兵士たちがそれを聴いて唱和しだした。

不思議に思った隊長が様子を窺うと、英軍は射撃の準備もせずに近づいてきた。実は、その3日前に日本が連合軍に降伏していたのである。もし合唱をしていなければ、その事実を知らないこの小隊が敵の大軍に射撃を浴びせ、その結果両軍が戦闘状態に突入して小隊は全滅したかも知れなかった。

 こうして平和裡に降伏した小隊は捕虜収容所に収容され、周囲のビルマ人たちと友好関係を結ぶのだが、このころ隊長は水島にある命令を下した。それは、敗戦後もいまだ抵抗を止めない日本部隊を説得して無事に収容所に連れて来る、という使命だった。

水島はその使命を果たすべく懸命に努力したが、彼らを説得できず、あくまで抵抗したその部隊は英軍に全滅させられた。この結末に苦悩した水島は、日本に帰国せずにビルマの僧となって戦死した日本兵の菩提を弔う、という決心をした。収容所の日本兵に帰国の時が訪れたが、僧衣を身に纏って収容所に近づき、竪琴を鳴らして遠目に別れを告げる水島を、戦友たちは必死になって呼び止めるのだが、決心の堅い水島は彼方に去って行った。
 以上は、私が映画から読み取った梗概である。不正確な紹介になっているところがあるかも知れない。

なお『ビルマの竪琴』の最初の映画化は、1956年で、水島上等兵・安井昌二、井上隊長・三国連太郎、二度目は1985年で、水島上等兵・中井貴一、井上隊長・石坂浩二が演じている。監督・市川崑、脚本・和田夏十は二回とも同じである。

 原作あるいは映画の脚本は、おそらく当時現地で起こった事実を下敷きにしてこれに脚色を加えたものだと思う。そして、私は30年ぐらい前に、この下敷きにされたかも知れない事実を記した手記を読んだことがある。それは、月刊誌『文藝春秋』の巻頭の随筆コラム欄(毎号数名が寄稿)に掲載された一文であり、筆者もタイトルも忘れたが、その内容は鮮明に覚えている。概要は次のとおりである。

 インパール作戦に参加した日本軍が敗退を重ねる中、ある小部隊が英軍の大部隊に包囲されたまま夜を迎えた。夜が明けて敵の攻撃がはじまると、もはや全滅は免れない情勢だった。そこで、最後に皆が練習した唄を歌おうということになった。そのとき、歌った唄がイギリス民謡「庭の千草」だった。

そして、遂に夜が明けた。朝霧の中、全滅を覚悟して敵の情勢を窺うと、何と英軍は囲みを解いて姿を消していた。この予想もしなかった事態のおかげで、包囲されていた小部隊は無事に後方陣地へ帰還することができたのである。のちにこの異変の原因がわかった。

あの夜、英軍は日本軍が歌った「庭の千草」のメロディーを聴いて、これを歌った日本の兵士たちの心情を思い遣り、連合軍の勝利が目前に迫ったこの時期に目の前の小部隊を撃滅したとしても大勢に影響がないと思い、囲みを解いて去って行ったのだという。(この手記のクライマックス・シーンで歌われたのは「庭の千草」であるが、私が見た映画『ビルマの竪琴』の類似のシーンでは「埴生の宿」になっている。竹山道男の原作も「埴生の宿」である。)
 
この手記を読んだ私は、日本人兵士がイギリス民謡を選んでよかったな、と思った。戦前、小学校の音楽の授業でこの種の歌唱を習っていた彼らにとって、「庭の千草」や「埴生の宿」は共通の懐かしい歌だったのだ。彼らがもし「よさこい節」や「ソーラン節」などの日本の民謡を選んでいたら、さらにもし軍歌の類を選んでいたら、彼らの歌声がイギリス人兵士の心を打たなかったかも知れない。

日本が太平洋戦争に突入して「小学校」が「国民学校」と改称された時から、欧米の民謡などは敵性音楽として音楽の教科書から追放されていた。しかし、戦前に義務教育を受けた兵士たちは全員、この手記に登場した「庭の千草」や「埴生の宿」をよく知っていて、学校で学ばなかった日本の民謡よりも身近かに感じていたにちがいない。また“死”を目前にして全員で遥かな故郷を懐かしむに当たって、威勢のよい軍歌よりも、故郷の自然を歌ったこのイギリス民謡の方を相応しいと思ったのだろう。

 戦前の日本人の教育水準は、少なくとも教育年限で見る限り、現在のそれに比してきわめて低かった。太平洋戦争直前の1940(昭和15)年ごろの統計データによると、男子に限っても義務教育以上の中等教育経験者(旧制中学校・工業学校・商業学校・農業学校への進学者)は17%程度であった。それ以上の、いわゆる高等教育経験者(旧制高等学校・大学予科・高等専門学校・高等師範学校・陸軍士官学校・海軍兵学校などへの進学者)は、当時おそらく5%にも達していなかった。さらに旧制高校から旧制帝大へのエリート・コースを歩む者は、1%程度だったと思う。

つまり、戦時中の日本軍兵士の大部分は6年間の小学校教育しか受けていなかったのだ。その彼らが全員で歌える歌、そして全滅を前にして最後に歌いたいと思った歌が、遥か海の彼方の民謡、そして眼前の敵軍の故郷イギリスの民謡であったことは、まことに感慨深い。後述するように、明治の初期に創設された義務教育制度が日本の近代化政策の一環としての側面を備えていたことから、小学校の音楽教育に欧米の音楽が導入され、昭和初期にいたるまで継続されたその結果が、彼らにこの幸運をもたらしたのである。

 私はこの手記を読んで、非常に嬉しかった。第一に、このときの英軍の指挿宮の雅量に感嘆した。中世以来の戦争史の中で際立っていたヨーロッパ流の騎士道精神は第1次世界大戦を最後に消滅した、というのが定説であったのだが、それが第2次大戦中も残っていて、その精神が非欧米国である日本の軍隊に対しても発揮されたことが嬉しかった。第二に、この美談をもたらしたもう一つの要因が、明治以後の近代的教育の中で日本の庶民が学んだ欧米の音楽だったことが、私にはとりわけ嬉しかった。この点については、私が従来抱いていた個人的な感慨が関係しているので、少し説明しておく必要が
ある。

 私は以前から、明治の初期に始まった日本の義務教育の中で、小学校の音楽教育にイギリス(スコットランド、アイルランドを含む)、アメリカ、ドイツ、イタリアなどの欧米の民謡が取り入れられたことに関心を抱いていた。勿論この欧米化志向は、音楽分野に限らず明治初期の文明開化の潮流が学校教育にもたらした当然の結果であり、これを特別視する必要はないと思う。しかし私は、鎖国の窓が開けたばかりの東洋の島国で兵児帯を締めて藁草履を履いた着物姿の子供たちが、先生が弾くオルガンに合わせて西洋の唄を歌う姿を想像して、とても微笑ましく思うのである。

時代が少し下るが、最近放送されたNHKの朝ドラ『花子とアン』の主人公・村岡花子の(ドラマの上での)郷里である山梨県の片田舎の小学校の風景を思い出してほしい。私は、文学や美術にも増して音楽がこれらの素朴な日本の子供たちにまだ見ぬ西洋の風景、人物、文物への親しみを覚えさせ、それを通じて西洋の(あるいは世界の)人々の哀歓、思慕、感動の念が日本人のそれと共通することを覚らせたと思うのである。

 こうした小学校の音楽教育には、日本人の作詞・作曲による小学唱歌も多数取り入れられた。「花」「荒城の月」「故郷」「朧月夜」「早春賦」などである。作詩者としては土井晩翠、高野辰之、吉丸一昌らが有名であり、作曲者としては滝廉太郎、岡野貞一らが有名である。こうして出来上がった唱歌は、基本的には西洋音楽の手法によるものであった。作詞者たちは明治の新政府によって設立された大学、高等学校、高等師範学校で近代的西欧的教育を受け、作曲者たちは同じく新政府によって設立された音楽学校で西洋音楽を学んだのだから、これは当然の結果である。

そして、日本の伝統的な邦楽や民謡が音楽の教科書に取り入れられることはなかった。これは少し極端だと思うのだが、当時の文部省は、こういう音楽は卑俗で教育に値しない、と考えたのだろう。当時の政府の「西洋に追いつけ追い越せ」という欧化政策の一環として、止むを得ない措置だったのだろうか。私はこのような極端な欧化政策一辺倒には反対であるが、当時の日本の子供たちに欧米の民謡や西洋風の小学唱歌を教えたことには、彼らの情操や音楽感性を世界共通のベース(普遍的基準)に導いたという理由で賛成である。

 もっともこのような理屈とは別に、私がこの種の歌唱が好きであり、それ故「庭の千草」が日本軍と英軍の兵士たちの心を結び付けたことが特に嬉しかったのだと思う。

私が小学校に入学した1941(昭和16)年に、「小学校」は「国民学校」と改称され、教科書も戦時体制用のものに改定され、音楽教科書から欧米の民謡が消えていた。そしこの年の12月8日に、日本は英米を相手とした太平洋戦争を始めたのである。しかし、教科書に西洋風の小学唱歌はかなり残っていたし、戦前のラジオ放送などで欧米の民謡も耳にしており、小学生時代の私はそれらの歌唱にかなり馴染んでいた。そして敗戦後、ラジオ・テレビやレコードで欧米の民謡がふんだんに聴けるようになったし、小学校の教科書にも再び取り入れられるようになった。そのころ私が住んでいた大阪近郊の箕面山麓から、山の彼方や青い空を眺めながら、この種の歌唱に歌われているまだ見ぬ異国への憧れが若い私の心を誘ったものだった。

 しかし戦後の小学校の音楽教育は、単純に戦前返りしたわけではなく、次第に新しい音楽の潮流が取り入れられるようになった。その結果、明治時代に採用された欧米の民謡や西洋風の小学唱歌は教科書から次第に消えて行った。こういった趨勢の中、昔を懐かしむ大人の視聴者を意識してか、ときどきテレビの音楽番組が「抒情歌」という枠の中でこれらの歌唱を放送することがあり、音楽番組をあまり視聴しない私も、この種の番組には注目している。私はまた、CDでもこれらの歌唱を聴いている。

 私が好きな欧米の民謡ほ、主としてイギリスのそれである。ドイツの「ローレライ」、イタリアの「帰れソレントへ」「サンタ・ルチア」、アメリカの「峠の我が家」やフォスターの歌唱も、もちろん嫌いではないが、イタリアやアメリカの民謡が太陽の下で歌われるのに相応しい明るい歌が中心になっているのに対し、イギリスの民謡は北国の憂愁の中に秘めながら愛や美や故郷への想いを歌っている点で、私の興感を一層掻き立てるのである。

中でも、本稿の主題である「庭の千草」や「ダニー・ボーイ(ロンドンデリー)」「アニー・ローリー」「ロックローモンド」「麦畑(夕空晴れて)」など、憂愁の気配が一層強いイギリスの辺境、スコットランドやアイルランドの民謡が好きだ。

 一方、日本人がつくった小学唱歌の主なもの、たとえば前頁に記した「花」ほかの歌唱も、大好きだ。日本の風景や日本人の心情を洋風音楽で表現したこれらの歌が、明治期の庶民に万国共通の普遍的音楽感性を植え付けたと考えると、何やら嬉しい気持ちになるのである。また、封建の世から開化の時代に導かれた彼らの新しい生活実態や生活意識がこの歌に現れていると考えると、その潮流が現在の自分の生活に繋がっているとも思えて、感慨深い。たとえば、滝廉太郎が作曲した「荒城の月」(作詞:土井晩翠)と「花」(作詞:武島羽衣)を比較すると、世間的には前者が有名であるが、私は後者の方が好きだ。

前者はたしかに名曲ではあるが、もっぱら古色蒼然とした型通りの風景と記憶を表現していて、私は陳腐感を覚えるのである。それに対して後者(1900〔明治23〕年作)は、江戸の町民から東京の市民に変貌した人々が隅田川で花見を楽しんでいる情景を歌っている。この中に「上り下りの舟人が 擢の雫も花と散る」というフレーズがあるが、ここで舟というのは昔ながらの和船のほかに学生たちのボートレース用の端艇を含んでいるかに思え、新しい帝都の曙を暗示しているようで、感慨深い。(江戸以前の封建社会が暗くて明治以後の近代社会が明るい、とする単純な直線進化論に与するものではないが、この時代推移がある種の必然だとすると、私の感慨も満更思い過ごしではないだろう。)

                     
以上、私がビルマ戦線における「庭の千草」のエピソードに対して抱く感慨の依って来る所以を記した。偏った個人的思い入れの強さが目について、納得感が得にくいかも知れないが、座興の一種と考えてご寛容いただきたい。

***左上の画像はフリーイラスト集より借用しました。