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  巽 健一  
  『乗馬の記憶』 (その4 最終回)
  ーわが青春暗黒記ー 
 

エッセイ 1−4   
(株)電通を経て
金城学院大学 元教授
社会学

横浜市

 この農園は、ある東京の富豪が大金を注ぎ込んでつくっただけあって、非常に立派なものだった。山麓を走る沿道から平地の農園の方に折れると、敷地に入る道の左右にかなりの大きさの池があり、その道を渡り切ると西部劇に出てくるような柵が張りめぐらしてあって、真ん中の幅広い木の門をギイと押し開けて中に入る。中にはまず左側に2階建ての木造の建物があり、1階が農園の事務所、2階が農作業を担当する農村青年たちの住居になっている。1階の事務所には、この農園を管理する老人が毎日出勤して来るのだが、何とこの人物は京大農学部農林経済学科出身の本格派である。

 

この農園はかなり広大で、当時は鹿児島や熊本の農業高校を出た3人の青年が田圃や畑をつくっていたが、専門の管理者が必要なほどの収穫高や税金の支払いがあったのか疑問である。おそらく農園主が道楽または慈善事業として、かかわりのある老人を雇っていたのだと思う。それはともかく私は、この農園の佇まいがまるで近世・近代のイギリスで存在感を示したジェントリー階級が営む農園のようだと、見たこともないのに勝手に想像して悦に入っていた。なお農園主の夫人は旧阿波藩主・蜂須賀侯爵家の出身で、彼女もどこで乗っていたのかは知らないが乗馬をする人だった。それゆえ、この農園に出入りしていた地元の洗濯屋が、彼女のおかげではじめて乗馬ズボンを洗濯するという経験をしたと言っていた。この辺りもジェントリーの生活スタイルに似ている、と言えなくもない。

 

 さらに、この2階建ての奥に農園主の住居があった。その外見は西部劇に出てくるような無骨な木組みの平屋だったが、内部は豪勢な造りだった。戦時中から戦後にかけて、東京から疎開して来た農園主の家族が住んでいたのだが、このころ彼らは東京に戻っていたので、前年の夏には私が一人でこの大きな平屋を使わせてもらった。冬に再び訪れたときには、この平屋は閉鎖されていた。耕作地は上下2段に分かれていて、乾燥した上段に畑、湿潤な下段に田圃があり、畑の中に人が住めるめる小屋が1軒あって、畑の横には牛小屋があった。畑の中の小屋は小綺麗で、ふだんは誰も住んでいなかったが、前年の夏には、農村青年の1人の父親(彼も農民)が海外農業視察団に参加して近くの伊丹空港から出発するためこの小屋で1〜2泊した。

 

 ここで私は2月初めから1ヵ月ばかり、私に近い年格好の3人の青年を手伝って働いたのだが、昨夏の作業状況は明確に覚えているのに、このとき山から吹き下ろす木枯しの中でどんな仕事をしたのか、不思議なことにまるで覚えていない。これは、作業動機が昨夏は明瞭だったのにこの冬は不明瞭だったからか、真因は不明である。この間も私は週1回、日曜日に布引乗馬クラブに通っていた。日曜日、農園は牛に餌をやる以外の作業は休みになるからだった。3月初めに、私はとうとうフッ切れたのか、農園通いを止め、自宅で1年遅れの卒論準備に取りかかるとともに、乗馬クラブには週2〜3回通い出した。この農園はその後何年かたって閉鎖され、農園主が箕面村(現・箕面市)に広大な敷地を寄付したので、その跡に小学校や体育館が建ち、現在にいたっている。その後3人の青年たちと逢うこともないのだが、彼らはどこかで農業を続けたのだろうか、それともこの数年後にはじまった高度経済成長の潮流に乗って他の職業に転じたのだろうか。

 

 甘ったれた根性で家出して両親や友人に心配をかけた私は、今度は真剣に勉強して卒業しなければならないと思った。ところが“好事魔多し”で、4月に入って間もなく、また微熱が発生した。医師によると、馬場に舞い立つ春の砂ぼこりのせいでアレルギー性鼻炎になったのではないか、ということだった。このときの微熱は長引き、大学を卒業して会社勤めを始めてから半年たったころに、耳鼻咽喉科の専門医の新聞寄稿で知った注射による治療法を実践してようやく収まった。発症から治癒まで1年半かかったが、もう我が儘は言えないと思っていたので、この間微熱の身体を奮い立たせて徹夜続きの卒論作成や就職活動も行って、1 9 5 8 (昭和33)年4月に広告会社の電通に入社し、大阪支社勤務となった。なお私の体調不安定は、このアレルギー性鼻炎による発熱を最後としてピタリと収まり、幸いその後の社会人生活に暗雲をもたらすことはなかった。

 

 アレルギー性鼻炎が発症してから乗馬クラブは休会にしていたが、電通入社の半年後に微熱が収まったので、毎週日曜日には神戸まで乗りに行くようになった。ところがその2〜3年後に、私か通勤に利用していた阪急電鉄宝塚線の途中駅から徒歩20分ぐらいのところにできた服部緑地公園の中に乗馬クラブが開業したので、そこで乗ることにして、お世話になった布引乗馬クラブを退会した。

 

 この新設の乗馬クラブの名は忘れたが、そこはかつてのデート・スポットの跡地だった。以前その辺りはすすきの穂が繁る一面の原っぱで、若い男女がすすきの蔭で抱き合っていた。普通はキス止まりだったが、中には奥深い草むらに隠れて大胆にも性交に及ぶカップルもいた。私も大学1〜2年生のころ、知り合った女性とここでデートしたこともあったが(私の場合はキス止まり)、その古戦場がいまはすっかり取り払われて馬場になっていた。

 このクラブでは私は会員にならず、一見客で通した。会社の仕事も忙しくなり、休日出勤もあったりして定期的に通えなくなったからである。私のそのクラブの特徴的な利用パターンは、たとえば朝の出動途上であまりの晴天に会社でのデスクワークが嫌になったとき、緊急の仕事が入っていなければ、途中駅で下車して会社に欠席の電話を入れて馬場に行く、という勝手気儘なものだった。会員でない私の料金は時間制だったから、1時間程度で乗馬を切り上げ、どこかで軽くビールを飲んで昼過ぎには家に帰る、という優雅な趣味的乗馬だった。そんな乗馬スタイルだったので、もはやかつてのような上達は望めなかった。

 

あるとき、布引乗馬クラブで知り合ったS氏とその彼女が突然この馬場に現れた。彼らは、新しい乗馬クラブを見に来たのだ。聞いてみると、彼らも布引のクラブを退会して六甲山の山頂にあるクラブに入会した、とのことだった。やはり以前の忘年会でクラブ経営者のM氏と激論したことから気拙くなって止めたのか、と思ったが聞かなかった。またこの2人は以前よりもっと親密な感じだったので、もしかすると結婚したのかも知れないと思ったが、これも聞けずに別れた。そのうちに彼らが入会した六甲山頂のクラブに行ってみようと思いながら果たせずにいるうちに、私は20代後半には乗馬を止めてしまった。止めた理由は自分でも判然としないのだが、仕事が忙しくなって来たことや、中途半端な乗り方で上達しなくなり嫌気がさしたこと、などが考えられる。

 

 私かまだ服部緑地の乗馬クラブに通っていたころ、以前通っていた布引乗馬クラブのすぐ近くの青山乗馬クラブの元会員の若い女性が劇的な死を遂げたことを知った。その女性は、日米安保条約改定反対闘争の渦中で圧死した東大生・樺美智子さんである。彼女は、事件があった1 9 6 0 (昭和35)年5月当時中央大学教授として社会学の教鞭を取っていた樺俊雄氏の息女である。氏はその数年前まで神戸大学教授として神戸に住んでおり、美智子さんは神戸高校の生徒だった。青山乗馬クラブは、布引乗馬クラブの東に接続する摩耶山から六甲山にいたる山麓にあり、神戸高校の近くだったので、彼女が通っていたのだ。

その後氏が中央大学に転じ、美智子さんも東大に入学して、一家は神戸を去った。高校3年生のころから左翼思想に傾倒し始めた彼女は、東大文学部で西洋史を学びながら、全共闘運動に入れ込んだ。私は学生時代に俊雄氏の著書を読んだことがあるが、彼は左翼的傾向を持ちながら、一方で大衆社会論のような左翼カラーの薄い理論にも理解を示す柔軟な社会学者だった。彼は安保改定には反対の立場で、同じ思いの夫人とともに反安保デモに参加していたが、過激な全共闘とは一線を画していただけに、美智子さんの死には一層悲痛な思いを抱いたことと思う。上京してからの彼女は、時間も金(ささやかな小遣いや家庭教師などのアルバイト代)も運動に注ぎ込んでいたので、もはや趣味の乗馬などする余裕はなかったはずだ。現在の私は、昨今の日本と世界の政治的・経済的腐敗現象を強く認識し、反体制的な立場(左右を問わず個人を抑圧する国家権力に反対する立場)に立つにいたったが、当時の私は典型的なノンポリで、安保条約の中身もよく知らなかった。

 

しかし、自民党政権が暁の国会審議で安保条約の強行採決を図ったことに危機感を抱き、会社の帰りに大阪・御堂筋を行進するデモ隊の列に発作的に加わった経験があったので、美智子さんの立場に同情的であった。会ったこともない女性であるが、その彼女が私が布引の馬場で騎乗していた同じころに近くの青山の馬場で颯爽と馬を走らせていたことを思い、心が痛んだ。

 

 この件には後日談がある。安保改定から10年後、私は電通大阪支社から東京本社に転勤になり、東京西郊の三鷹市に住んでいた。そのころ人気俳優の田宮二郎が仕事や金銭関係の悩みでピストル自殺するという事件があり、その彼の自宅が私の家の近くだったので、ある日曜日に私は散歩がてらその家の前を通りがかった。その家は豪壮なコンクリート建てではあったが、崖下の日当たりの悪い場所にあり、その前を殺風景な溝川が流れていて陰気な感じで、思いなしか不吉な雰囲気を感じた。私がそこを離れて歩き出して間もなく、陽当たりのよいしかし質素な家の前を通りがかって、ふと表札を見ると「樺俊雄」とあった。それで思い出しだのだが、その少し前に新聞か雑誌の安保関連回顧記事に掲載されていた同氏の住所がたしか三鷹市だった。僅か数分の間に、対照的ではあるがそれぞれに劇的な死を遂げた2人の有名人の自宅を目撃したことを、私は感慨深く受け取った。

 

 さて乗馬クラブ通いを止めてからも、私は観光地での野外騎乗などは続けていた。夏に美が原の丘陵地帯や軽井沢の林野をギャロップで突っ走るのは爽快だった。また電通の年中行事であった「富士登山」の機会を利用して、富士の裾野でも騎乗した。今は無くなったと思うが、当時の電通では戦前からの有名な伝統行事として毎年夏に富士登山を行っていた。役員、昇格社員、新入社員は強制参加、その他の社員は自由参加だった。

これらの一般登山のほかに、当時全国に30近くあった営業所(本社、支社、支局)間で競い合う競争登山があった。これは、御殿場登山口の5合目辺りから頂上まで走って登るという過酷なものだった。競争登山の選手が出発したあとから一般登山組が出発するのだが、夏の日照りの中を頂上に向けて走るのは無理なので競争登山は夜間に行われ、したがって一般登山も夜間に行われるという異例づくめだった。そういうタイム・スケジュールに合わせて、大阪支社の参加社員は全員夜10時ごろの国鉄列車に乗り、翌朝御殿場口に到着した。列車は寝台車などではなく普通車で、座席に座れる者は少なく、女子社員をふくめて大部分が通路に横たわって寝るしかなかった。こうして睡眠不足の参加者は、御殿馬口で会社が借り切った粗末な旅館で仮眠を取ったり休息したりして夜の出発までの時間を過ごすのだった。

 

 私はこの富士登山が大嫌いだった。高校時代に学校から富士登山に行ったことがあるのだが、そのときは他の登り口から植物限界の観察など景観が楽しめるコースを昼に登った。しかし電通流の深夜登山では、景色を楽しみながら登ることもできず、選手でもない私には面白くも何ともなかった。しかし新入社員のときと昇格したときには止むを得ず登ったのだが、私は少しでも楽しむために一工夫していた。まず、列車の中では通路で熟睡することを心掛けた。それは、寝つきのいい私には簡単なことだった。そして御殿場口に到着すると、会社の借り上げ旅館は敬遠してバスで山中湖に向かった。冷房のない旅館の赤茶けた畳の和室には真夏の太陽が照りつけて、仮眠どころではなかったからだ。山中湖には観光客用の貸し馬があった。山中湖から富士の裾野に展開する草原まで馬を走らせると割に近いので、私は健脚馬を選んで借り、思う存分原野を疾駆した。

こうして夕方、御殿場口に戻って一般登山に参加した。旅館でゴロゴロしていた他の社員より少しは疲れていたかも知れないが、若かったので登山に支障はなかった。

 私か30代に入ったころには、電通の富士登山行事にも少し変化が生じ、社員に対する強制力が弱まったので、私は参加しなくなり、したがって乗馬の機会もなくなった。

その後自分が馬に乗ることはなくなったが、それから30年たった人生の終わり近くに一度だけ馬場に赴いたことがある。少し冗長な記述になるが、最後にそのことを記しておきたい。

 

 私は57歳になったとき、定年を少し残して電通を退社し、名古屋にある金城学院大学という女子大に転じた。私は大学で社会学を専攻していたので会社の余暇に社会学会で学会報告を行ったり本を書いたりした履歴があり、文学部社会学科教授ということになった。なおこの学科には情報関係のコースが設けられていて、私の職歴を生かして社会学と広告論やマスコミ論をつなぐ授業なども行った。

 

大学に赴任して嬉しかったのは、社会学科の学生たちのレベルは別として、彼女らの間に社会学徒としてのエートス(精神的態度)が、私の学生時代のころと同じように存続していることだった。最初の年の4年生ゼミで、ゼミ生に卒業論文テーマの候補案を提出させたとき、ある学生が「電話コミュニケーション」というテーマを提出した。私は、彼女がコンピュータに精通していて学業の傍ら名古屋大学工学部の情報工学研究室でアルバイトとして雇用され、アルバイトの域を超えた業務を任されていることを知っていたので、「君は、電話のようなオールド・メディアではなく、もっと将来性のあるコンピュータをテーマにすべきだ」と言った。すると彼女は「コンピュータと人間社会の関係についての先行研究はまだ少ないので、コンピュータを取り上げるとどうしても技術中心で人間不在の論文になります。その点、電話だと人間社会とのかかわりに関する先行研究も多く、社会学らしい論文ができると思います」と答えた。

 

私は、この“人間不在”というセリフにちょっと感動した。それが、ある題材が社会学のテーマになりうるかを検討するときのキーワードの一つとして重要なものだからである。私が大学を卒業して数年後に、会社の余暇を利用して社会学研究をはじめたとき、研究自体は自分一人で行ったのだが、研究テーマが社会学の分野に妥当するかどうかを大学時代の恩師に相談することがあった。あるとき、私か家計消費に関する研究計画を思いついて相談したのだが、恩師の先生が「このテーマは人間不在だから止めた方がいい」と言われたことがあった。それ以後、自分が発案したテーマが社会学にフィットするかどうかを判断するとき、この“人間不在”というキーワードを常に重要な判断基準にしていたのだ。

 

私は彼女の言い分をそのまま認め、彼女が書いた電話コミュニケーションに関する卒論がよくできていたので「優」を与えた。卒業後、彼女は某大企業に一般事務職として勤務しながら、その腕前を認められて素人のおじさん社員たちにコンピュータの指導をしたり、新機種導入に関与したりして、活躍した。

 

翌年の4年ゼミ生の一人が、社会学科発行の在学生向けの雑誌に「社会学科の思い出」といったテーマで寄稿したことがあった。その書き出しの中で彼女が「社会学を学ぶ者で、マージナル・マンという言葉を知らない人はいないだろう」と書いていた。社会が進化するにつれて一人の人間が多数の集団に所属するようになるため、特定の集団からすると、その集団の成員である個人は自集団と他集団の境界(マージナル・ポイント)に位置していると見えるので、そういう立場に立つ個人を社会学ではマージナル・マンと呼んでいる。彼女は続く文章で、自分は入学直後から馬術部に入って馬術に熱中し、授業が終わったら名古屋北東部にある大学から南東部にある刈谷の馬場(そこで馬術部の所有馬を飼っている)に直行する日々を送り、社会学科と馬術部という2つの集団の間に位置するマージナル・マンとして4年間を過ごして来たが、そんな状態で十分な社会学の勉強ができたであろうか、という反省の弁を述べたのであった。

 

私はここでも、社会学のキーワードを使ったゼミ生を嬉しく思った。当節、生真面目に学問に取り組む姿勢を見せるような学生はダサいとして忌避される傾向がある。その風潮に反して“生真面目”を押し通した彼女は、もともと決してダサい人間ではない。バブル経済が崩壊した直後であったが、お嬢さん学校である金城学院大学の学生たちには、まだ在学中に海外旅行をする程度の経済的余裕があった。彼女は、学友たちとヨーロッパ旅行をした際に、ちょっと英語が喋れるので、リーダーシップを発揮して全員を統率したカッコいいお嬢さんでもあった。

 

 その彼女が4年生の晩秋に東海地区学生馬術選手権大会に出場することになったので、私は名古屋近郊の競技場に応援に行った。何十年振りかに見る馬場の風景に胸踊らせる思いで、馬上豊かに躍動する彼女らの演技を見つめた。結果は、団体競技が1位入賞、個人競技では他学部所属のキャプテンが1位入賞、私のゼミ生が3位入賞、という好結果だった。私は彼女らを祝福し、健闘を讃えて握手し、競技場を去った。それ以後、私は馬場という場所を訪れたことはない。ゼミ生の彼女は、卒業後名古屋商工会議所に勤務し、私が所用で会議所を訪れた際に所内を案内してくれたり、ティールームで彼女が携わっている仕事の話を聞かせてくれたりした。

 このように、私の暗い青春とともにはじまった乗馬の記憶は、遥か老年になって平穏な境地に辿り着いたところで、小さな終止符を打つこととなった。

               

 あるとき、新聞の随筆欄で松井今朝子さんが趣味の乗馬について書いたのを読んだ。彼女は、松竹の社員時代から歌舞伎にかかわり、独立してからも歌舞伎研究者として活躍するかたわら、江戸時代の芸能や遊里を題材とした小説をいくつも発表して直木賞も受賞している。その彼女なら日本趣味かと思ったが、ハイカラ・イメージの乗馬が趣味だとは驚いたが、現在60歳(本編執筆時)前後になった彼女は約10年前から余暇には必ず乗馬クラブ通いだという。

 この随筆を読んで、現在77歳(本編執筆時)になる私も20代前半の5〜6年間下手な乗馬を試みていたことを思い出した。それは、乗馬という一見華やかなスポーツとは程遠い、苦い青春の記憶を伴うものであった。私は、そのころのいわば逸脱的生活の記憶をふだん意識下に押し込めていて、めったに思い出すことはない。その後何食わぬ顔をして、若いころの不祥事を妻子にも知られずに生きている自分を守りたいと思う、自己防衛本能がそうさせるのかも知れない。しかし、私はもはや高齢である。この辺で、押し隠していた記憶を引き出して、乗馬とそれにまつわる苦い思い出や、さまざまな過去の出来事を回想してみたいと思った次第である。なおこの回想には特段のテーマはなく、唯だらだらと過去の時代状況と自分の行動や心境を書き残したにすぎないことをお断りしておく。

(執筆 2012420


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