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  巽 健一  
  『乗馬の記憶』 (その3)
  ーわが青春暗黒記ー 
 

エッセイ 1−3   
(株)電通を経て
金城学院大学 元教授
社会学

横浜市

私は夜に裏世界の男に雇われて生活費を稼ぎ、昼には裏世界ルーツの乗馬クラブで遊ばせてもらっているのだと、自分自身が表世界からの脱走者であるくせに、何となく違和感を覚えた。

 

 その表世界に、期せずして接触することがあった。神戸の町中で大学の知人とニアミスしたのだ。そのころの私は、夜の勤めと昼の乗馬にすべての時間を費やしていたので、新聞・雑誌・書籍など活字を読むことは皆無であった。ある日、アルサロの開店間際に近所まで買い物に行く用事があった。途中で古本屋に目が止まり、店頭で手軽な文庫本を手に取っていたとき、ふと後ろを見ると大学の同期生が向こうの通りを歩いているのに気づいた。彼は文学部国文学科の学生で、卒業後は大阪府立高校の国語教師になることが決まっていた。私はその瞬間、店の奥の方に身体を隠し、彼が気づかずに通り過ぎるのを待った。ふだん私は、白いボーイの制服を着るのを恥ずかしいと思ったことがなかった。その私も、表社会から滑り落ちることなく堂々と闊歩している友人を見た瞬間、現在の自分の姿を見られたくないと思ったのだ。そのとき手にしていたアテネ文庫か何かの小冊子の題名も覚えていないし、それを買ったかどうかも覚えていない。

 

 またある日、例によってアルサロの近くの酒屋にビールの買い出しに行ったとき、道の真ん中で高校時代の後輩に正面から出会ってしまった。彼は豊中高校軟式野球部で1年下の選手だった。体格の劣る私は6番・二塁手、体格に勝る彼は5番・左翼手だった。

私か阪大文学部に進学した翌年、彼は阪大工学部に進学し、彼が教養課程に在籍していたころは時々顔を合わすこともあった。思いもかけず、その彼に突然出会って、私は黙って笑いかけるしかなかった。彼も笑い返すだけで、お互いに言葉を交わすことなく別れた。彼は白い制服を着て左右の指にビールを挟んだ私の姿を見て、おそらく給仕のアルバイトをしていると思ったことだろう。

 

 また顔見知りではないが、ある種縁のある大学生に出会ったことがあった。勤めていたアルサロに、関西学院大学の学生が2人遊びに来たことがあった。彼らが帰り際にレジで支払いをしようとしたとき、持ち金が足りなかった。レジを仕切っていた人のよいボーイ長は「足りない分は今度持ってきてくれればいい」と言って、彼らを帰した。私は関西学院中学部の卒業生で、同級生が多数この大学に進学していた。この2人組は、私より12歳若い感じだったので、私は勝手に自分が彼らに対して同学の先輩だと思った。

 

彼らはいかにも良家の子弟に見えたが、私は先輩として一言忠告すべきだと思い、彼らを外に送り出したときに話しかけた。私が中学部の卒業生であること、このアルサロでは生活のために奮闘している女性たちが働いていること、ボーイ長の好意を無にしてほしくないこと、だから今度必ず残金を届けてほしいこと、などを伝え、念のために彼らの氏名を聞いておいた。身なりのいい彼らが残金を払わないはずはないと思ったのだが、この甘い「先輩」を嘲笑うかの如く、何週間たっても彼らは現れなかった。こんなことなら学生証か学生定期券かを預かっておくべきだったが、ボーイ長や私の甘さが仇になった。上品そうだった彼らは、もしかすると偽学生だったのだろうか。

 

 このように自分が振り捨ててきた「大学生」という存在に触れた瞬間は、何となく心がざわめくのだったが、日々の忙しさの中でそういう感情はすぐに霧散して行った。それよりも、私にとって重要なのは生活資金だった。5〜6千円の月給の中から3千円程度の下宿代を支払い、その残りから毎日の乗馬代を支払うと食費にも事欠く生活だった。家出するときにくすねたウィスキーの代金は、乗馬クラブの入会金や最初の月給が入るまでの生活費などに消えていた。朝と昼の食事をどうしていたのか、今では忘れてしまったが、夜の貧しい食事のことはよく覚えている。夜11時半ごろにアルサロが閉店するのだが、それから国電の終電までの短時間に私は三宮の闇市跡のバラック建ての飲食店で筋肉の入った煮込み――後でこの肉がたぶん犬の肉だとわかった――などの格安の食事をそそくさと済ませて、電車に乗るのだった。そんな食生活が1月も続いたある日の夕方、私はアルサロの用事で町を歩いていて、道端の喫茶店に目を止めた。

 

途端に、この店で長らく口にしていないバタートーストが無性に食べたくなった。そのとき、金の持ち合わせが少ない私は意を決して店に入り、珈琲も紅茶もなしでトースト1枚だけ食べさせてもらえないかと聞いた。それでもいいと言ってくれたので、私はトースト1枚を頼んで食べたのだが、そのとき自分が振り捨ててきた平凡な市民生活の食卓の香りを懐かしく思ったことを、今でも覚えている。こういう金欠状態だったので、私は乗馬の回数を減らして昼にもう一つ仕事を入れようと思った。そうして見つけたのが、不動産屋のアルバイトである。

 

 この不動産屋は三宮近くの小さな店だった。店主は30歳前後に見える眼鏡を掛けたインテリ風の男性で、旧制・神戸高等工業(現・神戸大学工学部)の出身または中退だった。店にはほかに彼の女房か同棲相手かの女性がいて、この2人で仕事をしていた。

私は週3日この店に通って、彼らが2人とも仕事で外出しているときの店番をしたり、彼らの手が塞がっているときに代わりにお客を物件のある場所に案内したりしていた。

 

 ある日、見込み客の家に行って客が見たいと思っている物件の所在地まで客を案内する、という仕事が発生した。私は教わった通りに粗末な長屋の客の家に行ったところ、30歳前後の女性が出て来たので彼女を当該物件まで案内しようとした。すると家の中から突然、彼女より若い精悍・大柄な男性が出てきて、彼女を庇うように私の前に立ちはだかった。まるで私か彼女を拉致するとでも思ったようだった。私は瞬間に気づいたのだが、そのとき私はいわゆる“慎太郎刈り”の頭髪で、ノーネクタイの薄茶の上着に薄緑のズボンを穿いていたので、ヤクザっぽく見えたにちがいない。それで、家の中から見ていた彼が急に不安になり、私が彼女を連れて行くのを止めようと思ったようだ。

 

私は彼らに、見かけはどうか知らないがまったく堅気の不動産屋の使い走りで、主人に言われて物件を案内しようと思って来たのだ、と言った。すると男性は、自分は彼女の弟で、九州の炭鉱で働いていたが最近神戸に来て姉と一緒に暮らしている、姉がもう少しいい家を探したいといってお願いしたのだが、誤解して申し訳ない、と言った。たしかに、地方から都会に出てきて、不動産屋という得体の知れない業者の使い走りの“慎太郎刈り”に出会ったら警戒するのも止むを得ないと思ったが、この一件で気が変わったのか元炭鉱夫の姉(もしくは彼女)が行くのを止めると言いだした。私は仕方なく手ぶらで戻ったが、主人は怒りも落胆もしなかった。客の気が変わるのは、始終あることのようだった。

 

 慎太郎刈りの頭髪は、実はその半年ぐらい前から若者の間で流行っていた。現在東京都知事(本編執筆時)でいろいろと物議を醸した石原慎太郎が、一橋大学の学生だった1 9 5 6 (昭和31)年に「太陽の季節」で芥川賞を受賞したことから、彼の不良っぼい髪型が流行したのだ。私は彼の人物や小説に共感を覚えはしなかったが、なぜか髪型だけが好きだった。そのおかげで、一つ仕事を棒に振ったことになる。それが原因だったはずはないが、その不動産屋は私が勤めだして3週間ぐらいで店仕舞いしてしまった。ある日出勤すると、閉店の張り紙がしてあった。私はそれを見て、小説や映画によくある出来事が起こった、と思った。この店の給料は月給制だったので、1ヵ月たたない間の無断閉店のため月給が貰えなかった私はまったくの只働きで、報酬といえば一度店主夫婦と外で一緒に仕事をしたときにご馳走になった昼食だけだった。しかし人の良さそうな彼らの顔と零細な経営実態を思い出すと、怒る気にもなれなかった。

 

 いろいろな出来事があった中、私の夜のボーイ稼業と昼の乗馬練習は粛々と続いていた。その中で、家出から2〜3週間たって自分の生活が固まってきたころ、はじめて両親に手紙を書いた。家出するとき簡単な書き置きをして、各地を放浪するので当分帰らないこと、働きながら転々とするつもりだが当座の軍資金を得るためにウィスキーを持ち出すこと、大学の方には退学届けを出してほしいこと、を伝えてあった。しかし心配しているはずの両親にときどき手紙を出そうと思っていたので、はじめて実行したのだ。
 その手紙で、私はいま西日本の港町で働きながら好きな乗馬で楽しく過ごしている、と書いた。

 12月の初めごろだったろうか、布引乗馬クラブで練習していると、突然私の中学時代の同級生で親友だったK君が現れた。彼は西宮市在住で、神戸大学経済学部の学生だった。彼によると、私の両親から連絡があり、私がたぶん神戸にいるので探してほしいと頼まれたという。私は手紙を投函するとき、三宮や湊川などのすぐに神戸市内だとわかる消印の場所を避けて投函したつもりだったが、「西日本の港町」という記述を手掛かりにして郵便局で調べればすぐわかることだった。

 

K君は私を変に刺激しないようにという配慮からか、叱ったり早く家に帰れと言ったりはしなかった。その代わり、彼も乗馬クラブの会員になって私と一緒に乗馬がしたい、と言った。この言葉を聞いて、心中で「参った」と思った。彼には言わなかったが、彼にこう出られたら、このまま神戸から遁走することはできないと思い、いずれ落ちついたら家に帰って両親を安心させようと心に決めた。こののちK君は本当に会員になり、大学の帰りなどによく乗りに来た。

 

彼も乗馬は初めてだったが、もともと運動神経が発達していたので、すぐに私のレベルに追いついた。彼が現れなければ私はいつか日本海の藻屑と消えていたかも知れないので、正道に引き戻してくれた彼は大切な恩人である。こののち数ヵ月して家に帰ってから、私は布引乗馬クラブに通い続けたが、使命(?)を果たした彼はクラブを退会した。彼は大学卒業後、商社に入り、得意の語学と商才を発揮して英語圏や独語圏の海外勤務で活躍し、80歳近くなった今も元気で乗馬ではなくゴルフに励んでいる。

 

 K君が現れてから間もなく、私は下宿の住所を明記して両親に手紙を書いた。心配をかけた謝罪の言葉とともに、遠くない時期に家へ帰るつもりだがもう少し時間がほしいこと、勤め先のアルサロには迷惑をかけたくないので次のボーイが決まるまでは辞めるつもりがないこと、などを書き送った。その後少したってから、母が下宿に手紙を寄越してくれたが、その中に寒空の下で放浪する息子を案じた素人俳句が記してあった。結構いい句だと思ったのだが、親不孝なことに今はその句を覚えていない。

 

 こうして年を越し、2月の初めに4ヵ月間の家出生活に終止符を打って家へ帰ることになった。アルサロ勤務の最後の夜には、これまで店が終わったあとで時々一緒に飲んでいた湊川方面の仲間――ボーイ長と女給たち――と居酒屋に行き、無一文で家に帰っても大丈夫な私の奢りで別れを惜しんだ。私はその後も三宮に行く機会があり、自分が呼び込みをしていた店の前を通ることも多かったのだが、何故かその後彼らに会うことはなかった。愛妻に死に別れていつも淋しそうだった好人物のボーイ長は、再婚を果たしたのだろうか、その後の高度経済成長の波に乗ってしがないアルサロ勤めから抜け出し、大型キャバレーや新規レジャー・飲食産業などに勤めて幸せな生活をゲットしたのだろうか。

 

 詫びを入れて家に帰った私は、ちょうどそのころ体調が安定していたこともあって、4月からはじまる5年目の大学生活で卒論を完成させて卒業しようと決心した。しかし何故か家に落ち着かず、前年の夏に2ヵ月間過ごした箕面山麓の農園に毎日出掛けて、今度は通いで農作業をさせてもらうようになった。以前は炎暑の中の体調不良に対する逆療法という明確な目的があったのだが、このときの動機は何だったのか今考えてもわからない。私の迷走生活の起点となった農園で自己再確認したいという深層心理があったのかとも思うのだが、判然としない。もしかすると、私はその農園が好きだったので、卒論に全力投球する前にもう一度農園に行って名残を惜しみたいと思ったのかも知れない。

 


(その4(最終回)につづく)ーーーーーーー

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